市道に墜落して曲がったプロペラとエンジン(1970年9月2日撮影)

市道に墜落して曲がったプロペラとエンジン(1970年9月2日撮影)

 滋賀県彦根市金剛寺町の市道に航空自衛隊の訓練機が墜落して乗員4人全員が死亡、付近の民家が全半焼した事故から、2日で50回忌の節目を迎えた。燃えた民家の住人は建て替え後の庭に慰霊碑として地蔵を安置し、今も花を手向ける。今年は自衛隊から長年の慰霊に対する感謝状を贈られた。「隊員の供養や再発防止を願い、事故の記憶を子や孫に引き継いでいきたい」と話す。

 事故は1970(昭和45)年9月2日午後2時ごろに発生。航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地(宮崎県)救難隊所属のMU2訓練機が現在のJR河瀬駅から1キロ東の市道に墜落。20~45歳の操縦士や無線員4人が死亡、付近の民家や倉庫3戸が焼けた。訓練機は同基地を飛び立ち、八尾基地(大阪府)を経由して石川県の小松基地に向かう途中だった。

 全焼した家に住んでいた病院職員の川村宏さん(62)は墜落時、中学の授業中で難を逃れた。両親と姉も外出していて無事だった。当時の新聞には、プロペラやエンジンが曲がった無残な機体や、真っ黒になった骨組みだけを残した川村さん宅の写真が掲載されている。

 事故の翌年、借家住まいを経た川村さん一家は、補償金で以前と同じ場所に現在の家を建てた。彦根藩主井伊家から拝領したと伝わる武具など先祖代々の文化財や家族のアルバムは失われ、川村さんは「両親はつらい思いをしたと思う。建て替え後も、時々に『飛行機が落ちた家』と言われて嫌な思いをした」と振り返る。

 父親の清さんは改築に合わせ、乗員を弔う小さな地蔵を庭に安置した。市道沿いの墜落現場を見守るように置いて世話してきた。清さんが20年前に亡くなった後は川村さんが盆や正月のお供えや日々の献花を続け、週初めには必ず手を合わせてきた。

 遺族が高齢化し、事故関係者との交流は約30年の間途絶えていたが、5月下旬、過去の事故の慰霊の状況を調べていた新田原基地の隊員らが川村さん宅を訪れ、感謝状を贈った。

 同基地によると、事故時は左エンジンが故障し、片発飛行が重量に耐えられなかった。事故後は、気象条件が悪い時には燃料を減らすなどの新たな安全策が加わったという。山口達也・救難隊総括班長は「運用に教訓を残した事故だった。長年の慰霊に感謝し、今後はつながりを絶やさないようにしたい」と話す。

 川村さんは50年目を迎えた2日の朝、いつものように地蔵に手を合わせた。「心ある隊員が事故を忘れずにいてくれた。被害には遭ったが、犠牲になった乗員は市街地を避けた結果、ここに落ちたと聞いている。少しでも長く供養を続けていきたい」としている。