新型コロナウイルスの感染拡大で全国に「緊急事態宣言」が出された中、憲法記念日を迎えた。
新型コロナ特措法により、外出や営業などの自粛が強く求められている。大型連休中にもかかわらず閑散としたまちの風景は、例年とは大きく趣を異にしている。
移動、集会、表現や経済活動など、私たちが本来持っているはずの「自由」が制約を受けている。国民の権利が幅広く制限される事態は、今の憲法下では初めてだ。
健康や生命が脅かされ、感染を早く終息させたいとの願いは当然である。ただ、不安への裏返しなのか、社会のあちこちにギスギスした息苦しい空気が漂う。
感染した人や家族、勤務先に対する差別的・排他的な言動が後を絶たない。スーパーでの買い物や公園で遊ぶ子どもらにも批判の目が向けられる。ウイルスに関する小さな感覚の違いすら、分断と対立のきっかけになりかねない。
こうした空気を反映してか、強い権限で国民の行動を抑え込むことに肯定的な人は多い。共同通信の世論調査で、緊急事態宣言発令を評価する人は7割を超えた。
国民の犠牲は当然?
感染から身を守るため、あらゆる手を尽くすべきとの思いは理解できる。だが、異論が排除され、管理や監視が強まる社会は、憲法が保障する基本的人権を侵しかねない。安心・安全を追求しながら人間の尊厳をどう守っていくか。その視点を忘れてはなるまい。
問われなければならないのは緊急事態を宣言した政府の対応だ。
根拠となる特措法について、多くの問題点が指摘されている。
店舗などに営業の自粛を求め、場合によっては施設名の公表や、より強い休業「指示」もできる。
しかし、休業に伴う店側の損失は考慮されていない。実務的に自粛などを求める立場の知事らが独自の協力金創設を打ち出してはいるが、都道府県ごとに基準が異なり、金額も十分とはいえない。
営業を続けるパチンコ店名公表という強い措置に踏み切った大阪府知事ですら「本来は補償があるべきだ」と指摘している。
政府は休業補償について否定的な姿勢をとり続けているが、事業者や労働者が追い込まれている窮状への想像力を欠く。国家の緊急時に国民が犠牲を払うのは当然-とでも考えているのだろうか。
特措法は国や都道府県からの自粛要請などに国民が自発的に応える形をとる。協力する側に「自己責任」を求めているといえる。
これに対して、政府の責任は曖昧だ。安倍晋三首相は爆発的な感染拡大を防げなかった場合に関して「私が責任をとればよいというものではない」と述べている。
憲法が保障する権利の制約を国民に求めながら、その結果責任は負わないつもりなのだろうか。
そればかりか、西村康稔担当相は休業指示に従わない場合は法改正で罰則を設ける考えを示し、一部の知事も同調している。
感染リスクをはらむ営業行為に国民の不安が高まっているのは確かだとしても、罰則で従わせることには慎重な議論が必要だ。納得して休業できる仕組みを整えないまま強権を振るえる体制を政府に許してしまうのは危うい。
日常的な備えが重要
政府は緊急事態宣言を1カ月程度延長する方針だ。まだまだ警戒が要るということだろう。
そうした危機感を背景に、憲法を改正して緊急事態条項を盛り込むべきとの主張が自民党内から改めて出ている。同党が2年前に示した改憲4項目では、異常かつ大規模な災害が起きた際などには、内閣に緊急政令を制定できる権限を与えるとする。
この主張に対しては、基本的人権を縛り、三権分立を侵しかねないとの批判が根強くある。
緊急時に国民の権利を制限することは今の憲法下でもありうる。
災害対策基本法では、国会を召集できない場合に内閣は緊急政令を制定できるほか、医療・輸送関係者を救助業務に従事させ、物資の保管や収集を可能とする。
ただ、そうした規定が機能するかどうかは、万一の際に対応できる法制定など日常的な備えができているかどうかにかかっている。
災害発生時には国と自治体が決められた役割に従って動く一応の定めがある。与えられた権限を使って被災者らに手を差し伸べるのは自治体である。憲法に緊急事態条項を設けても、政府ができることは現状とさほど変わらない。
権限はむしろ分散を
内閣への過剰な権限集中が、現場を預かる自治体の対応力を阻害する懸念も指摘されている。加えて、極めて強い権限を持つことになる首相の資質が、今以上に問われることも考えておきたい。
コロナ禍は、知事らの権限に見合う財源を保障し、実際の対応をしやすくする法整備こそ重要というシンプルな事実を浮き彫りにした。権限を政府に集中させるよりも、むしろ首長に分散する仕組みが求められているのではないか。
危機にさらされたと感じる時、強い指導力に依存したくなるのは人の常かもしれない。だが、その力がもたらす負の側面についても冷静に考える機会を持ちたい。