佐和山城の城下町跡で見つかった溝と石組みの橋台。橋は、城と主要道をつなぐ道に架かっていたとみられる(彦根市佐和山町)

佐和山城の城下町跡で見つかった溝と石組みの橋台。橋は、城と主要道をつなぐ道に架かっていたとみられる(彦根市佐和山町)

 滋賀県文化財保護協会はこのほど、戦国武将の石田三成の居城だった佐和山城の城下町跡(彦根市佐和山町)で、石積みの橋台遺構が見つかったと発表した。橋の存在は古図になく、協会は「橋の方向から、城に続く生活道路があったことが推測される。城下町の具体的な様相に迫る成果」としている。
 佐和山城は同市北部に位置し、多くの城主を経て1591年に三成が豊臣家の代官として預かった。関ケ原の戦いで三成が敗れた後は井伊直政が入城し、彦根城に移った後に廃城となった。
 橋台は一対で、いずれも最大の幅が5メートル、高さ60センチ。生活排水用とみられる溝(幅2・6メートル)の両側に自然石が積まれている状態で見つかった。両溝を渡す橋と、それに続く道があったと推測されるという。
 この道は、城から東に伸びて橋を越え、約100メートル先で城下町の主要道「本町筋」と交差する形になる。周辺で出土した陶器などの遺物から、三成の入城前の16世紀終わりに整備され、17世紀始めごろまで使われていたとみられる。
 井伊家が江戸後期に作成した佐和山城絵図では東西の道がないことから、同協会は「城下町の変遷とともに橋が撤去され、道路としての機能を失っていったのでは」とみる。
同協会の山口誠司技師は、この東西道について「城内と城下町の主要道を結び、武士や商人の往来を可能にする極めて重要な道だったと考えられる」としている。