うめさお・まやお 1951年生まれ。梅棹忠夫氏の次男。15歳で陶芸を始め82年に南丹市美山町で開窯。2015年8月、実家をギャラリーに。民博が梅棹生誕100年記念展を予定している。

 世界各地を探検し、国立民族学博物館(民博、大阪府吹田市)の初代館長だった父・梅棹忠夫は、1920年6月13日に西陣で生まれた。スペイン風邪が世界に大きなダメージを与えていたころだ。生誕100年の2020年は没後10年でもある。

 30歳ごろ、大阪市立大に勤めていた父にはたっぷり時間があった。出入りの大工さんに指導を頼み、「大工だった先祖の血がよみがえった」と北白川の自宅に書棚や塀をこしらえた。父と母は、とても楽しそうに部屋のレイアウトや家具の話をしていた。子供のころの鮮明な記憶だ。

 梅棹家のルーツは、滋賀県長浜市の菅浦にある。竹生島の対岸で、実際に初代が幕末に京へ出て大工になった。父は数えて4代目に当たる。

 帰宅した父は、着物に着替えると食卓で気になった新聞記事を赤鉛筆で囲んでいた。今西錦司先生の娘・皆子さんら歴代の秘書さんが切り抜いて茶色の台紙に貼り、新聞名と日付を記入して食堂隣の居間にあった事務机の横にストックしていく。原稿は、2階の和室で正座して書いていたように思う。

 仏壇があった居間は、約12畳の板の間だった。研究者に加えて学生や外国人らも自由に議論に参加した研究会「金曜サロン(梅棹サロン)」の会場だ。参加者は2、3人の時もあれば10人ぐらいの時も。若い世代には、ビールも魅力だったのだろうか。珍しい海外のスライドや動画を上映する時には、小学生の私も「見るか」と父に声を掛けられ、わくわくしながら一緒に見た。

 1970年の大阪万国博覧会後、民博の館長となった父は、母と大阪府豊中市に転居した。新年のあいさつで今西先生や桑原武夫先生宅へ伺った父が、北白川の家に帰ってくるのを石毛直道さんらが待ちかまえている。これがしばらく続いた新年の風景だった。

 思い出の家は2015年、ギャラリー「ロンドクレアント」に改装した。父が堪能だったエスペラント語で「クリエーターが集まる場に」という意味を込めた。河井寛次郎さんと父は親交があり、貴重な作品をいただくこともあった。60代半ばの失明後には、新しいことに挑戦しようとピアノの練習を始めた。残念ながら、これはものにはならなかった。ギャラリーは、芸術も愛した父の思いに沿った改装だと思っている。

 新型コロナウイルス感染でテレワークが推奨されている。ワープロ登場以前、ブラザーに縦書き和文タイプライターの試作を頼み、実際に使った父のことだ。存命なら、新しい情報のやりとりや事務用品開発に笑って取り組んでいただろう。(陶芸家)