井上靖さんは生前、滋賀県北部に伝わる十一面観音像をたびたび訪ねて回った。近江ならではの素朴で庶民的な観音様に接し<集落の人たちと共に生き、集落の人たちの苦しみや悩みを聞いてやっていたのであろう>(「湖畔の十一面観音」)と思い巡らせた▼井上さんの巡礼は、主人公が湖国の観音様を巡る1972年刊の小説「星と祭」として実を結ぶ。人気の一冊となり、観音巡りブームに火を付けた。渡岸寺の国宝十一面観音で「観音の里」として知られる長浜市高月町の高月図書館には遺品を並べた井上靖記念室も残る▼その「星と祭」が現在、絶版状態で入手しにくい。これを知った長浜の住民らが「湖北や観音様のことを知ってもらいたい」と小説の復刊に乗り出した。資金を集め今秋の刊行を目指す▼近年、多くの自治体が映画のロケ誘致に力を注ぐ。仏像などの有形文化財に限らず、小説や映画の舞台となって脚光を浴びることも地域の財産になると考えるからだろう▼湖北では今も古本を手にした巡礼客が絶えない。昭和を代表する作家に光を当ててもらったことに後押しされ、長浜市は庶民の信仰に根ざした「観音文化」を地域の宝として前面に押し出す▼復刊はまちおこしだけにとどまらない。井上さんへの恩返しにもつながるのだろう。