原文は阿部俊子・今井源衛校注『日本古典文学大系9』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している
 

 水の尾の帝・清和天皇の御代に、左大弁の娘が、弁の御息所と呼ばれて後宮にいらっしゃったが、帝がご出家なさったあとは独り身でいらっしゃったのを、在中将・在原業平が密かに通っていた。中将はたいそう重い病気を患ったが、本妻たちもおり、こちらは人目を忍ぶ間柄なので、直接訪問してお見舞なさるということもできず、こっそりこっそり手紙を送っては、安否を問うことを日ごとに行っていた。ところが、便りを送らぬ日があった…。病もいっそう重篤になり、それが最期の日になってしまった。中将のもとから、
  一人寂しく過ごして、ますます心がつらく悲しいのに、今日、あなたは文の訪れもなく、このまま日を暮らしてしまおうというのですか。
という和歌を寄こした。すっかり弱くなってしまったのね、と女もたいそう泣き騒いで、お返事などもしようとしているうちに、亡くなった、と聞いて、もう本当にやるせない思いでつらかった。まさに今こそ死の間際となってよんだ和歌は、
  最後には誰でも行く道だ、とはかねてより聞いていたが、まさかそれが、昨日今日のことだとは、うかつにも思っていなかったことよ。
と詠じて、とうとう息絶えてしまった、ということである。

『奈良絵本 大和物語』(龍谷大大宮図書館蔵)
十六図の絵を有する江戸時代の写本。『浦島太郎』や『酒呑童子』など、お伽草子と呼ばれる中世小説は極彩色の絵を伴って読まれ、奈良絵本と称された。奈良絵本の素材は広く『源氏物語』や『伊勢物語』など、平安時代の物語にも及ぶ。この絵は、在原業平の臨終を描く本段の挿絵である

辞世歌か、2人つなぐ文字の愛

 

 キーワードは「しのぶ」である。秘められた恋、逢えない苦しみ。ただし「忍」の一字ではない。『万葉集』では別の語だった「偲(しの)ふ」も、この時代には「しのぶ」と同語に合流ずみだ。この歌物語にも、偲ぶ恋慕が深く拡がっている。

 もはや男は病んで動けず、「しのびて」女を訪ねることもできない。「しのびしのび」の切ない文字の愛だけが、二人をつなぐ、唯一の手立てとなった。それが、ふと途絶えた「その日」。男から悲痛な贈歌が届き、死という究極の沈黙で、すべてが終わった。女は、泣くことしかできない。「つれづれと」日「暮らし」とあるこの歌は、『徒然草』の始まりのようだが、それは、兼好のような内面に向かう孤独ではない。弱りゆく意識の中で、手紙の来ない愛人に、せめて一言をと、切々と淋しさを訴えすがる、はかない甘えであった。

 『伊勢物語』(定家本)最終の第百二十五段も、同じ死の場面だが、文脈は大きく異なる。『伊勢物語』は「昔、男、わづらひて、心地(ここち)死ぬべくおぼえければ」と男の視点で危篤の苦しみを簡潔に描き、「つひにゆく」の辞世歌のみを記して閉じる。女は登場せず、「つれづれと」の和歌もない。代わりに『伊勢』は、前段第百二十四に「昔、男、いかなりける事を思ひける折(をり)にかよめる」として「思ふこといはでぞただにやみぬべき我と等しき人しなければ」の独詠歌を置いた。私の思いは、きっとこのまま伝えずにおこう。私と同じ心の人などいないのだからと、こちらはまるで、近代人のような孤高を歌う。『伊勢物語』は男の死の寂寥について、本妻の存在や関わりにさえ言及しない。

 『大和物語』は、この前後に一連の『伊勢物語』関係章段を採録し、次段第百六十六の末尾に「これらは物語にて世にあることどもなり」と『伊勢物語』の流布と同話の重なりに言及する。だが両者は作品の方法が違う。『伊勢物語』は「初冠」から死の暗示まで、恋する「昔男」の一代記、という体裁をとる。『大和物語』の方は、蘆刈や姥捨山の古伝説なども交えつつ、様々な人々をめぐる歌語りを誌す。本段も「在中将」と特定し、語り手は女に寄り添いながら、業平末期の苦しみを、いくぶん客観視して捉えていた。

 清和天皇は、生まれた年(八五〇)の十一月に、三人の兄を超えて皇太子となり、天安二(八五八)年に、数え九歳で即位した。踏み越えられた異母長兄が惟喬親王で、業平とは深いゆかりがある(「文遊回廊」第18回)。翌年四月に貞観と改元し、円仁から菩薩戒も受けた清和は、一時代を築いて、同十八(八七六)年十一月二十九日に譲位。元慶三(八七九)年五月八日に出家し、法号を素真(そしん)と名乗る。嵯峨の水尾(みずのお)を好み、仏堂を造って終焉の地と定め、翌四年十二月に崩御。遺骸も水尾山上に安置された。水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)という。

 同じ元慶四年、従四位上で右近衛権中将だった在原業平は、数え五十六で「卒」する。彼はどこにいたのだろう。鴨長明は業平邸旧跡を伝承するが(「文遊回廊」第28回)、その他にも、大原野の十輪寺など、業平由来の名所は多い。業平が最後の愛を捧げた御息所についても、残念ながら不明である。清和天皇時代の左大弁には、藤原氏宗(うじむね)(~貞観三年)、藤原良縄(よしただ)(~同五年)、南淵年名(みなみぶちのとしな)(~同九年)、大江音人(おとんど)(~同十六年)、藤原家宗(いえむね)(~同十九年)が任ぜられているが、誰の娘かもわからない。江戸初期の『大和物語鈔』という注釈書は、この左大弁について『伊勢物語』百一段に業平兄の行平とともに登場する、左中弁藤原良近(まさちか)のことだと解し、斎宮に卜定された清和皇女識子(しきし)内親王の母が、御息所に当たると述べる。ただし良近は、大弁になっていない。

 六国史の掉尾『日本三代実録』は、業平の没年月日に伝記を掲げ、彼は美しい容姿で、自由気ままに行動し、漢詩文の学識は乏しいが、和歌は上手かった(「業平体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」)と辛辣で端的に評する。『三代実録』編者の一人、大学者菅原道真の視線がほの見えるようで、興味深い。五月二十八日が「その日」。新旧暦は異なるが、今日は業平の命日である。

 

西方寺(京都市西京区)

西方寺奥の竹林に、在原業平と父・阿保親王、母・伊都内親王のものと伝わる供養塔が立つ(京都市西京区)
西方寺地図

 在原業平は、祖父が長岡京に遷都した桓武天皇で、そのためか京都市西京区大原野には業平にまつわるエピソードや史跡が数多い。大原野上羽町の丘陵に建つ西方(さいほう)寺の裏に広がる竹林には、業平と父母(阿保親王、伊都内親王)のものと伝わる供養塔が立っている。

 母の伊都内親王は、晩年は長岡に移り住んだとされ、古今集、伊勢物語に、子に会いたがる伊都内親王と母を思う業平の間で交わされた贈答歌が残る。また、江戸時代の「山州名跡志」には「上羽村は昔、長岡村といい、伊都内親王が住んでいた。3人の誰かは決められないが墓もある」との記述がある。京都市に編入される以前、上羽には小字「長岡」が存在し、同様の言い伝えが残るという。

 竹林は、初夏の風でゆるやかにそよいでいる。日差しが揺れながら照らす供養塔を見ていると、業平の風雅が幻のように立ち上ってくる。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)