明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が残る(大津市石山寺1丁目、石山寺)

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が残る(大津市石山寺1丁目、石山寺)

 戦国武将明智光秀の重臣の一人である明智秀満(左馬助)が1582(天正10)年の本能寺の変の直後、瀬田城主山岡景隆に船戦(ふないくさ)を挑んだことを記した古文書が、石山寺(大津市石山寺1丁目)で見つかった。秀満は山崎合戦の後、愛馬に乗ったまま琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連する史料が少なく、その生涯は謎に包まれている。専門家は「実像に迫る上で貴重な史料」と評価する。
 見つかったのは、同寺塔頭世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒をまとめた「山岡景以舎系図(いえのけいず)」(縦27センチ、横1・19メートル)。天正19年、景隆の息子によって書かれたものを筆写した古文書で、塔頭法輪院の蔵に保管されていた。


 古文書には、秀満がもともと名乗った「弥平次」の記述が登場する。光秀が織田信長を討った本能寺の変の後、安土城へと向かう秀満の軍勢に対し、信長方の景隆が瀬田の橋を焼いて防戦したことが記されている。「弥平次船に乗って湖上を済(わた)らんと欲するに」(読み下し文)と船戦にもつれた経緯を伝え、湖上で家来を討たれた秀満が琵琶湖を渡れなかったことが書かれている。
 明智軍が瀬田で進軍を阻まれたことは信長の一代記「信長公記」などに残っているが、その軍勢を秀満が率い、湖上で戦ったという記録はこれまで見つかっていなかった。滋賀県文化財保護課の井上優主幹は「この船戦が、湖水渡りの伝説につながったのかもしれない」と推察する。
 石山寺の鷲尾龍華責任役員は「光秀が主人公の大河ドラマが放送されているタイミングで、明智家に関する史料が見つかったことに不思議な縁を感じる」と話す。古文書は今秋に本堂で公開する予定。