■ろう者への医師の無理解、運転免許制度の不備… 勉ちゃんは息絶えた

勉ちゃんの父親が寄贈した手彫りの看板前で、手話で思いを語る石野さん(2018年11月13日、草津市大路2丁目)

 滋賀県で暮らすろう者の福祉拠点、県立聴覚障害者センター(草津市)に、一枚板の看板が掲げられている。石野富志三郎さん(66)は、手彫りの力強さが伝わる文字を見るたびに、46年前を思い出す。当時の出来事を悔しさをにじませながら、手話で語り始めた。

 勉(つとむ)ちゃんの急死を告げるはがきを手に、石野さんは電車とバスを乗り継いで湖北地域のろう者の夫妻宅に駆けつけた。仏壇には遺影が置かれていた。「全て社会が悪い」。夫妻は怒りを隠さなかった。

 当初、勉ちゃんは軽い肺炎で体調を崩した。約1週間の入院を経て退院したが、再び高熱が出たため、妻は同じ病院に連れて行った。妻はろう学校で手話を禁止され、口の動きを読む口話教育をたたき込まれていた。ところが医師はマスクを着用したままで口の動きが見えない。「外していただけませんか」。筆談でお願いすると、なぜか医師は激高し、看護師に診察室から追い出された。

 容体が悪化する。夜、帰宅した夫が勉ちゃんのけいれんに気付いた。話せないので119番できない。病院に急行したくても、1973年8月まで聴覚障害者は運転免許を取得できず、夫妻は車を運転できなかった。夫は小さな体を毛布に包んで背負い、自転車で30分かけて病院へ向かった。勉ちゃんは息絶えていた。

■「社会を変えて」、権利運動の原点

 「社会を変えてほしい」。夫妻の怒りは、石野さんがろうあ運動に取り組む原点になった。悲劇を二度と繰り返さないために権利を主張し、「手話は命」との信念から手話通訳の制度化や手話言語条例制定に力を入れてきた。

 「勉ちゃんの名前は、重度障害のある私の長女智美(ともみ)と、同じく重度障害があり2011年に病気で亡くなった長男健史(たけし)と並んで忘れられない」。石野さんの手は震え、目から涙がこぼれ落ちた。

 石野さんは優生保護法という法律があったことを、宮城県で国家賠償請求訴訟が始まった昨年1月に初めて知った。調べると、同法は「遺伝性の難聴又(また)はろう」も対象にしていた。「怒りと衝撃がこみ上げた。障害者への差別は根強く、過去の問題ではなく、今日の問題として社会全体で考える必要がある。今こそ立ち上がるべきだ」と、すぐさま連盟に実態調査を指示した。

 対象は連盟の会員の範囲内にとどまるが、昨年12月末までに京都を含む24都道府県の男女136人が不妊手術や中絶を強いられたと証言した。滋賀県で証言に応じた人はいない。

 「証言には勇気が要る。恥ずかしさが先に出るから。悔しさを忘れてしまいたいのが本音だろう。でも、悔しさをずっと抱えたまま生きていくのは誰だって嫌だ」

 玄関の看板は、1995年の開所に合わせて彫刻師になっていた勉ちゃんの父が「恩返しに」と寄贈してくれた。石野さんは、この夫妻の悲劇を、ろう者が当時受けた差別の象徴と受け止めている。忘れてはいけない。決意を示すように掲げている。

 夫妻とは年賀状のやり取りを続けていた。6、7年前に連絡が途絶えてから、どこで、どう暮らしているのか、今となっては分からない。