■息子の「ありがとう」に喜び

息子からのメッセージを手にする櫻田さん(1月11日、京都市北区)

 「おかあさん ぼくおうんでくれてありがとう」

 36年前の母の日、小学1年生だった一人息子からもらったメッセージ。短髪に丸顔、目尻を下げて笑う母親の似顔絵が添えられている。「貴重品と一緒に保管しています」。見ることはできないけれど、手にするたびに頬が緩む。

 櫻田さんは左京区大原で育った。父親は「赤紙」が届き、朝鮮半島沖で戦死。母親が行商で家計を支えてくれた。小さな頃から目が不自由で、京都大病院や府立医科大病院で診てもらうと、視神経が萎縮していると言われた。小学4年生の時から、府立盲学校で点字の読み書きや料理、裁縫など日常生活に必要なことを身に付け、高校卒業後ははりとマッサージを学び、職に就いた。

 2歳上の全盲の夫と結婚。31歳の秋、妊娠の兆候に気付いた。産婦人科医は「おめでたです」と告げると、夫を呼んでくるように伝えてきた。夫はマッサージの仕事中だ。「なんで呼ばなあかんのですか」。医師は答えた。「遺伝とかあったらあかん。ご主人に話を聞かせてほしい」

 夫からは、戦時中の栄養失調で目が見えなくなったと聞いていたが、障害のない妊婦であれば聞くことのない医師の言葉に驚いた。「今のうちに考えた方がいい」。中絶を勧める医師に「普通にお世話していただいたら、ちゃんと産みます」と遮った。他人にそこまで踏み込んでほしくなかった。

■見えないのは不自由だけど不幸じゃない。産んでよかった

 高校時代、漫才師のミヤコ蝶々と南都雄二が司会を務める人気ラジオ番組「夫婦善哉」を寄宿舎で聞いていた際、ゲストに子育て中の全盲の夫婦が登場し、勇気づけられたことがあった。母親は「うちは不幸だ」とよく口にしたが、櫻田さんは「目が見えないのは不自由だけど、不幸じゃない」と思っていた。

 1977年5月17日、予定日より1カ月早い出産。産声は予想に反して弱々しかった。医師が「男の子ですよ」と、おちんちんを触らせてくれる。「生きている」と安堵(あんど)し、「自分の体から新しい命が誕生した」と感激した。

 3日後、保育器から出た息子を初めて抱かせてもらう。指先に意識を集中し、全身をなでた。たまねぎのような手触りの髪、耳、5本ずつある両手足の指。細かくリズムを刻む息遣いや、産着越しに伝わるぬくもり、おっぱいを吸う力。すべてから生命力があふれているようだった。おむつを替えるタイミングはにおいで分かった。公園では、息子のズボンの後ろに鈴を付け、どこにいるのか音で判断した。

 息子の誕生日を迎えるたびに、あの医師の言葉がなぜか脳裏をよぎる。

 「もちろん、産んでよかった」

 41歳になった息子は、今は大阪でパソコン関係の仕事に就いている。