■「記憶の壁」、取材難航

滋賀県の元保健師の女性。優生保護法の時代の記憶をたどってくれた(大津市内)

 「主人はもう、亡くなりました」。電話口の女性が申し訳なさそうに告げた。取材ノートに「×」印を書き加える。優生保護法(1948~96年)の取材は、有力な証言を得られない日が続いた。

 障害者らへの強制不妊手術はどう進められたのか。国の統計によると、滋賀県の手術記録が残るのは54~75年分。当時を知る県職員や医師を捜した。

 「保護義務者の無知と盲愛のため、関係者の説得にも拘(かかわ)らず拒絶し続け―」

 手術を拒む女性の家族を侮蔑(ぶべつ)した71年6月の県文書を起案した元県職員の男性が、京都市内にいることが分かった。

 自宅を訪ねる。「優生保護法の件で話を聞きたいのですが…」と切り出すと、突然激高された。「50年も前のことを取り上げて、なんの社会的意義があるんや!」。質問を挟む間もなくドアを閉められる。

 取材趣旨を書いた手紙をポストに入れて後日電話をかけると、男性は「先日は失礼な対応になりました」と話を聞かせてくれた。強制不妊手術の審査を担当したのは年に1、2件で記憶にないらしい。優生保護法は「憲法の精神の下、人権に十分配慮した法律」だと認識していた。

 「無知と盲愛」の文書も覚えていない。「本人や家族に会ってもいない。私の独断でそんな表現を使いませんわ」。審査対象者に接する保健所の資料から言葉を引用したのでは、と語ったが確証はないという。

 県で優生保護法の担当だった別の80代男性は草津市に暮らしていた。自宅を訪ねたが、会うことはかなわない。耳が遠く日常会話も難しい状態という。長男は「父は家族にも優生保護法の話をしていなかった」と教えてくれた。

■手術の調査をした覚えが全くないんです…

 取材ノートの×印が積み重なっていく。元県職員、産婦人科医、民生委員…。2カ月半で110人を数えた。

 「他界した」「病気で会話もできない」。担当外で知らない、という人も多かった。公文書に名前がある元職員に取材を申し込んだが、「二度と電話しないでください」と家族に拒否された。

 長浜保健所が70年に作成した「優生手術該当者調査書」に、記入者として名前が残る男性がいた。事務職員だった長浜市の男性(91)。文書を手に取り「ああ、これは私の字です」。印影も自身のもので間違いないという。

 だが、「すみません。優生手術の調査をした覚えは全くないんですが…」。

 県への入庁や異動の日付は即答できる。記憶自体は鮮明でも、調査書に対象者の症状や遺伝関係を記入したことはないと明言した。語り口は丁寧で、うそとは思えない。あの調査書は、誰が記したのだろうか。

 2月上旬。別の保健所で保健師をしていた大津市の女性(90)に会った。市内の特別養護老人ホームに入居していた。

 優生保護法による強制不妊を知っているか聞いた。「そんな手術があったの。全然知らないなあ」

 またか―。落胆を顔に出さず、取材を10分ほど続けた。強制不妊のことを再び尋ねた時だった。

 「手術を嫌がる親には、何度も説得に行ったらしいよ」。女性が突然、語り出した。