原文は佐竹昭広校注『新日本古典文学大系39』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している
 

 この地の名を音羽山という。一面に定家葛(ていかかずら)のような蔓草が覆う。谷には草木が繁るが、西は眺望が開ける。西方浄土観想のよすががないわけでもない。春は、波のように揺れる藤の花房を見る。紫の瑞雲のごとく、西方に広がり映える。夏は、ほととぎすの音(ね)を聞く。死出の山路を往来するこの鳥と語らう度に、冥途の道標(みちしるべ)を約束する。秋は、ひぐらしの鳴き声が耳の奥にまで響きわたる。蝉の抜け殻のように儚い現世を悲しむ音楽に聴こえる。冬は、白雪を愛(め)でる。積もり、また消えていくその様子は、人の罪障に譬(たと)えられよう。

 もし念仏さえ億劫で読経する気力もわかない時は、自ら休息を定め、自分の意思で怠ける。邪魔する人もおらず、また、遠慮すべき人もいない。わざわざ無言の行をしなくとも、独り住んでいるので、口の業(ごう)の修行は、当然成就できる。必ず禁戒を守るぞと力まなくても、その対象や環境がないのだから、戒めを破る契機すらない。

 もし船が残す白い波に、我が身の無常をなぞらえて嘆く朝には、岡屋の津に行き交う船を眺め、ひそかに沙弥満誓の風情を気取って和歌を詠み、もし風が桂の葉を鳴らす夕べには、『琵琶行』の潯陽の江に想いをはせ、桂大納言源経信に倣って琵琶を奏でる。もしさらに興が乗れば、松の梢を鳴らす風の音になぞらえ、琴で『秋風楽』を弾き、水の音に合わせて琵琶の秘曲『流泉』を奏でる、などということもしばしばだ。

蠣崎波響(かきざきはきょう)筆「月下巨椋湖舟遊図」(広島県立歴史博物館所蔵) 巨椋池の情景を伝える稀少な名画。ただし、秀吉が伏見城を築き、堤防を造って宇治川を改修した後の姿で、伏見から豊後橋(観月橋)、向島、巨椋池を望む。長明の頃の巨椋池は、水運の重要拠点であり、その豊かな水の流通は、宇治一帯を貴族達の避暑の地とする利便ともなった
 

閑居にいて和漢の時空を往来

 鴨長明は『方丈記』の中で、「日野山ノ奥ニ」結んだ「方丈」の「仮ノ庵」のことを「六十(むそぢ)ノ露消(き)エガタニ及ビテ、更末葉(さらにすゑば)ノヤドリヲ結(むす)ベル事アリ」という。露は、はかない命のたとえ。消ゆ、末葉、宿り、結ぶと縁語を連ね、老境の住まいについて語り出す。『方丈記』は、建暦二(一二一二)年「弥生(やよひ)ノ晦(つごもり)コロ、桑門(さうもん)ノ蓮胤(れんいん)、外山(とやま)ノ庵ニシテ、コレヲシルス」と閉じる。推定一一五五年生まれの長明が、露命六十と、あえて大数(たいすう)でいうのは、六十歳が人間の定命(じようみよう)(定められた寿命)だとする当時の認識に基づく(佐竹昭広)。晩年の長明(一二一六年没)が、出家の蓮胤として誌した『方丈記』は、単なるエッセイとは異なる仏教書だ。寛元二(一二四四)年二月、醍醐寺の高僧親快が「鴨長明自筆也」と「証」文を付した片仮名書きの最古写本(大福光寺本)も残る。原文の底本である。

 自然は芸術を模倣する。自然が私たちを感動させるのは、読んできた詩や観(み)てきた絵など、蓄積した芸術体験がもたらす効用にすぎない(オスカー・ワイルド『嘘の衰退』)というが、長明の描くこの場面が、まさにそうだ。和歌、漢詩文、音楽(管絃)という、貴族的教養の輻輳(ふくそう)に身を委ね、孤独で殺風景な山中の夜明けと夕べを、豊穣な文化的風景として彩る。

 まずは朝。日野からは西南にあたる巨椋池東端の岡屋を眺め、沙弥満誓(しやみまんせい)の和歌「世の中を何に譬(たと)へむあさぼらけこぎゆく船のあとの白波」の無常観に浸る。夕べは漢詩。白居易『琵琶行(びわこう)』を想う。中国江州(こうしゆう)の潯陽(じんよう)江(長江)のほとりで、夜、舟の客を送る時、楓(かつら)が風に音を立て、どこからか都を偲ぶ琵琶の音が聞こえてくる、との風情だ。そして音楽へ。桂という詞から、琵琶桂流の祖とされる桂大納言源経信(つねのぶ)(一〇一六~九七)を想い、琵琶を奏でる。経信は、長明の和歌の師俊恵(しゆんえ)の祖父で、詩・歌・管絃の三道を極めた一級の教養人であった(『十訓抄(じつくんしよう)』)。この直前に詳述される庵の内装を見ると、西面の北側に阿弥陀仏と普賢菩薩の像を掛け、その前に『法華経』を置く。修行の場だが、黒い皮籠の中には、和歌、管絃、『往生要集』等の抜書(ぬきがき)があり、傍らに、琴と琵琶(折り琴、継ぎ琵琶)を一張ずつ立てる。極小の閑居は、和漢の時空を往来する、豪奢(ごうしゃ)な芸術空間へと変貌した。

 長明は楽人(がくにん)でもあった。『文机談(ぶんきだん)』(十三世紀後半成立)によると、琵琶の師中原有安(なかはらのありやす)は、長明には伝授を尽くさず没したが、「すき物」長明は、管絃の名人たちを集め、「賀茂のおくなる所」で、「秘曲づくし」を開催する。名人達の演奏に興が乗った長明は、伝授を受けずに、琵琶の秘曲『啄木(たくぼく)』を皆の前で数回演奏した。これを「もれ聞」いた琵琶の名人藤原孝道(たかみち)は、「おもき犯罪」だと後鳥羽院に告発する。そこまで咎(とが)めるべきことかと同情論もあったが、孝道は「道の狼藉(らうぜき)」だ、許すわけにはいかぬと「強(こは)く奏聞」を続けた。長明は「これにたへず」、都を去り、「修行のみちにぞ思ひたちける」という。話の真偽には議論があるが、『方丈記』の長明は、そのうっぷんを晴らすかのように、たった独りの閑居の地で、『啄木』に次ぐ秘曲『流泉』を思いのままに弾じ、自足の境地を謳歌する。

 ところで、長明の蔵書『往生要集』の著者恵心(えしん)僧都源信(げんしん)は、曙に、比叡山横川(よかわ)の恵心院から「水うみ(=琵琶湖)を眺望」した時、舟が沖を通るのを見てある人が「こぎゆく舟のあとの白浪」と詠じたのを聴く。源信は深く感銘を受け、和歌は仏道修行の助けになると悟り、以後、詠歌を嗜むようになったという(『袋草紙』他)。長明の念頭にはこの逸話がある。宇治川が流れ込む風光明媚(めいび)な巨椋池が、長明にとって、琵琶湖を連想させる大池だったこともわかる。しかしこの大池は、戦前に干拓され、姿を消した。和辻哲郎『巨椋池の蓮』(一九五〇年)は、昭和初年前後の八月初旬未明、蓮が巨椋池一面に「ほどけ」開き、「見渡す限り蓮の花ばかりの世界のただ中にいた」ことを回想した名文で、往年の面影を伝える貴重な記録となった。

 

大池神社(京都府久御山町)

 鴨長明が琵琶湖になぞらえた巨椋池は、今の京都市伏見区、宇治市、久御山町一帯に広がっていた巨大池沼。その広さは周囲約16キロ、面積約800ヘクタールにも及んだ。

巨椋池に生息した生き物の霊を祭る大池神社(京都府久御山町)

 古くから漁業が盛んで、池一面を覆うハスを楽しむ「蓮見舟」も夏の風物詩だった。しかし、昭和初期には水質悪化が進み、1933(昭和8)年~41(16)年にかけての大干拓事業で消滅し、農地に。現在は、倉庫や工場、住宅、田畑が混在し、高速道路が行き交う郊外の風景へと変容している。

 漁業の中心だった久御山町東一口(いもあらい)地区には、干拓の犠牲となった池の生き物の霊を祭る大池神社=36(昭和11)年創建=や江戸時代、大庄屋として漁業の取りまとめをした山田家の住宅遺構が残る。

巨椋池跡

 ハス畑も散見され、巨椋池とともにあった集落の面影が伝わってくる。旧山田家住宅は、毎月第1木曜、第2土曜、第3日曜日に公開。有料。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)