皆さんは「織豊(しょくほう)城郭」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? わが国には、古代から江戸時代までに2万とも4万~5万とも呼ばれる「城」が築かれてきました。その中で、織豊は織田・豊臣を略した言葉です。つまり、織田・豊臣勢力が築いた城を指しています。代表的な城跡として滋賀県の安土(あづち)城跡を挙げることができます。

南側の栗尾峠から矢印の方向に望む周山城跡(写真は全て府教委提供)

 京都府にも、織豊城郭から発展した城があります。例えば福知山城(福知山市)や亀山城(亀岡市)は明智光秀が築いた城を近世城郭に改修・発展させたものです。そのため、光秀の築いた織豊城郭としての面影は薄くなり、築城当初の石垣や縄張りを特定することは困難です。

 今回紹介する周山城跡は京都市右京区京北、西日本JRバス「八千代橋」から見て北西の山頂に所在しています。城跡は比高差約230メートルの山上に、東西約1200メートル、南北約630メートルの範囲に大小20余の曲輪(くるわ)を配置しています。城跡に登るには、麓(ふもと)からつづら折りの山道を登り、山上を目指します。この道が大手の可能性があり、東西の両尾根にある曲輪から大手ににらみを効かせています。

周山城跡で最も良好な状態で残る石垣

 右手の曲輪付近に登りさらに進むと、石垣をもつ長大な曲輪にたどり着きます。この曲輪の裾を城道(じょうどう)が通っており、敵が攻めてきた際に側面から攻撃する仕組みになっています。曲輪の入り口は城道のさらに先にあり、石塁で防御を固めています。この曲輪には土塀や門があったのでしょう。

 この曲輪から本丸までさらに頂上を目指します。別の曲輪の南裾を通り、虎口(こぐち)の石段を抜けた西側が本丸です。なお、この虎口には礎石があり城門があったことが分かります。枡形(ますがた)虎口と呼ばれる織豊城郭の特徴的な出入り口を通ってやっと天守台にたどり着きます。天守台は崩れてはいますが、総石垣で穴蔵も残されています。また瓦が落ちていることから瓦葺(ぶ)きの建物があったと推定されます。城は本丸を頂点に延びる尾根筋にさらに曲輪を展開しています。やや離れた西側の尾根にも独立した曲輪群を造っており、最後の砦(とりで)として使用するつもりだったのかもしれません。このように、巧妙な曲輪の配置、石垣や枡形虎口、礎石建物、瓦葺き建物が揃(そろ)った織豊城郭が凍結保存とも言える良好な状態で遺(のこ)されているのが、周山城跡の最大の特徴です。

周山城跡の天守台。瓦葺きの建物があったことを示す瓦などが落ちている

 周山城は、築城年は不明ですが、明智光秀の築城と伝わります。天正3(1575)年から始まる光秀の丹波攻略は、八上城と氷上城に勢力をもった波多野氏、赤井氏を攻略することが目的でしたが、京北周辺に勢力をもった宇津氏や亀岡を拠点とする内藤氏をまず攻略することが必須でした。京から丹波に抜ける交通の要衝である京北を押さえることが丹波攻略に必要だったのでしょう。文献史料から光秀が茶人である津田宗及(つだそうぎゅう)を城に招いて月見を催したことが分かります。光秀の丹波攻略は一進一退でしたが、天正7年、光秀、羽柴秀長、丹羽長秀らが総攻撃をかけ、丹波平定がなりました。光秀に丹波1国が与えられたのは天正8年、その2年後の天正10年に本能寺の変により信長を討った光秀は、同年羽柴秀吉により討ち果たされます。天正12年に秀吉が周山城を訪れた記録がありますが、それ以後、文献には登場せず、まもなく廃城になったと考えられます。こうした経過が周山城跡が当時のまま保存されることにつながりました。

 このような歴史性をもち貴重な遺構が残る周山城跡ですが、文化財として未来に保存・継承していくためには、大勢の方々にその価値や魅力を知ってもらうことも大事です。近年、京都市文化財保護課がレーザー測量を行い、詳細な城跡の姿が明らかとなりました。また、地元の有志で組織される「周山城址を守る会」では、登頂会の開催やパンフレットの製作、登山道の整備などを行っておられます。こうした取り組みが、文化財が地域で愛され地域の誇りとなり後世に伝えられていく原動力となるのでしょう。

周山城跡

 なお、現地見学の際には服装に注意し、遺構・石垣の保護に配慮のうえ、瓦や土器などを持ち帰らないようにしてください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 石崎善久)