日本で最初の近世城郭というと、織田信長の築いた近江八幡市の安土城跡など、複数の城が候補に挙がることでしょう。一方で、日本最後の近世城郭はどこなのでしょうか。あまり知られてはいませんが、実は今回取り上げる園部城跡が日本最後の近世城郭なのです。「近世」城郭というからには江戸時代の城を指すのが通常ですが、園部城が近世城郭として完成したのは、なんと明治維新後の明治2(1869)年のことでした。

園部城の櫓門と隅櫓。現在、園部高の正門となっている(府教委提供)

 園部城が近世城郭として整備されたのは、幕末の動乱が関係しています。当時の京都は禁門の変などの動乱が相次いでおり、万が一に備えて京都から近い要衝の園部陣屋(じんや)を城郭化することを園部藩が幕府に求めました。幕府からは一度築城の内諾が出たものの、直後に大政奉還となってしまい築城できませんでした。その後、明治新政府との交渉の末、慶応4(1868)年にようやく築城の許可が下りたのです。小麦山山頂に新たに三重櫓(やぐら)が建てられ、主郭(しゅかく)には櫓門や隅(すみ)櫓などが建設されました。明治2年にようやく完成した園部城でしたが、明治4年に園部藩は廃藩となり、翌明治5年には建物などが払い下げられてしまいました。現在、府立園部高校の正門として残る櫓門と隅櫓以外に目に見える遺構はほとんどありませんが、地下には堀跡などの遺構が良好に残されていることが、発掘調査で明らかになっています。

日本最古の天満宮といわれる生身天満宮(府教委提供)

 藩庁をより武装化した近世城郭とすることは園部藩の長年の悲願でした。元和5(1619)年に初代藩主小出吉親(こいでよしちか)が入府(にゅうぶ)以来、園部藩は小出家が代々治めました。藩庁は江戸時代を通じて現在の園部城跡の場所にありましたが、城よりは格下とされる陣屋のままでした。しかし、園部陣屋には小出吉親の築造以来、武家屋敷地までを取り囲む堀や鉄砲などを放つ狭間(さま)をもつ土塀があり、近世城郭に近似した武装を備えていました。あと少しで近世城郭にできるという状況が、園部藩の悲願を生む要因になったのかもしれません。

 園部城の東には、近世山陰道に面した城下町が開かれました。一部は近年の開発で失われましたが、今も江戸時代以来の雰囲気を残しています。また、園部陣屋築造以前に小麦山にあったとされる生身(いきみ)天満宮は、日本最古の天満宮といわれています。陣屋を築く際に小出家の支援を受けて陣屋東側の天神山に移ったとされます。生身天満宮境内(府暫定登録文化財)には江戸時代の社殿などがよく残っています。

園部藩初代藩主・小出吉親の墓所(府教委提供)

 園部藩歴代藩主の墓所も園部城の近くに造られました。墓所は、現在の佛教大園部キャンパス校地内にあり、グラウンド北側の丘陵頂部に位置しています。長い石段を上った先の土塀の内側に、初代藩主吉親以下、第9代の英教(ふさのり)まで歴代の藩主の巨大な供養塔(くようとう)と灯籠(とうろう)が立ち並ぶ姿は壮観です。墓所を囲む土塀の外側には空堀を巡らせて、一部には自然石積みの石垣を設けています。墓所でありながら城に似た防御施設をもつのは、他の大名墓所に例のない小出家墓所の特徴です。京都府内でも規模が大きく残りのよい大名家墓所として、府指定史跡に指定されています。

園部藩初代藩主・小出吉親の墓所(府教委提供)

今年は園部藩が成立して400年目の節目にあたります。南丹市ではこれを記念して、生身天満宮祭礼の復活やシンポジウムなどを多数企画しています。近世山陰道の要衝として栄え、日本最後の近世城郭や壮麗な墓所、最古の天満宮、古い町並みを残す城下など見どころの多い園部は、まさに文化財の宝庫といえる街です。

園部城跡とその周辺(南丹市)

 ご見学の際は、園部城跡の中心部は園部高校の敷地になっていますので、学校にお声掛けください。また、小出家墓所は佛教大の管理となっていますが、南丹市教育委員会=0771(68)0057=にお問い合わせください。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 中居和志)