清水寺の門前の商店街を抜けると、正面に仁王門が、その後方に西門(さいもん)と三重塔が並び建つ景色が見えてきます。この場所は格好(かっこう)の撮影スポットとなっていて、連日多くの人でにぎわっています。筆者も数十年前の修学旅行の際にここで記念撮影をした一人ですが、全国的には同様の写真を持っている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

1983(昭和58)年ごろの仁王門(左)、西門(右手前)、三重塔(右奥)=写真は府教委提供

 さてこの景色、建物の塗装に注目してみると、昭和の終わりから平成の終わりにかけて大きく変貌してきたことが分かります。今回は、清水寺でこの約30年間にわたって行われてきた塗装修理について振り返ってみることにします。

 清水寺の現在の伽藍(がらん)は、文明元(1469)年の戦火後に再建されたものと、寛永6(1629)年の火災後に再建されたものを主としていて、本堂が国宝に、その他15棟の建物が重要文化財に指定されています。これらのうち、仁王門・鐘楼・西門・三重塔・経堂・田村堂(たむらどう)・阿弥陀堂・奥院(おくのいん)・子安塔(こやすのとう)については、建物全体への丹(に)塗りや、柱上の組物(くみもの)への極彩色(ごくさいしき)などが施されています。しかし、これらの建物は建立以降、屋根葺(ふ)き替えなど建物を維持するための修理が繰り返されてきたのみで、塗装についてはほとんど手が入れられないまま近年に至っていたと考えられます。このため、昭和の終わり頃のカラー写真を見ると、「赤門(あかもん)」とも呼ばれる仁王門に丹塗りの痕跡がみられる程度で、ほかに丹塗りの建物があったとは思えないような状況となっていました。

 そのような中、1984年から87年にかけて、三重塔の半解体修理を行いました。この修理では、塔の2層、3層部分を一旦(いったん)解体して組み立て直しているのですが、この時に外部の部材の一部に極彩色が施されていた痕跡が発見され、関係者で議論を行った結果、丹塗りとともに復旧することとなりました。

昭和の塗装修理が行われる前の三重塔。右手前の建物は経堂=写真は府教委提供

 この三重塔の塗装復旧は大きな反響を呼び、清水寺ではこれを契機として、建築当初に丹塗りや極彩色が施されていた建物について、屋根葺き替えや解体修理の機会などに順次塗り直しを進めることとしました。これにより、1994年に西門、96年に阿弥陀堂、99年に鐘楼、2000年に経堂、03年に仁王門、05年に田村堂、13年に子安塔、17年に奥院の順で塗り直しを行いました。この結果、現在の清水寺の伽藍は、塗装の面でみると寛永10(1633)年に再建・整備された頃に近い状況になっていると考えられます。

平成修理後の三重塔=写真は府教委提供

 塗装の復旧にあたっては、丹塗りについては顔料と塗装範囲に関する調査を、極彩色については文様と配色に関する調査と復原図の作成を行った上で、どのような方針で修理を行うのかを検討します。塗装を塗り直すということは、建築当時の鮮やかな姿を再現することになる一方で、もとの塗装を掻(か)き落とす必要があるため、建築当時の塗装面を失うことにもなるからです。

 この結果、建物内部の塗装がよく残されている三重塔と奥院については外部のみを塗り直すこととし、阿弥陀堂と田村堂については建物内部の塗装の一部を保存、その他の部分は塗り直すこととして修理を行いました。なお、奥院の外部塗装は、建物の下半分に塗装を行わずに素木(しらき)のままとする見慣れないものとなっていますが、これは、建物の下半分からは丹塗りの痕跡がはっきりとは確認できず、江戸時代の絵図で素木の建物として描くものも残っていることから、今回は手を加えないという判断を下したためなのです。以上のように、一口に塗装修理といっても、建物の塗装の保存状況や調査結果により、その内容はさまざまなものとなるのです。

平成修理後の奥院(部分)。建物の下半分は丹塗りを行わず、組物の極彩色は南面(左側)を塗り直さずに保存している=写真は府教委提供

 ところで、再塗装により鮮やかな姿となった建物も、年月の経過とともに紫外線や風雨の影響により退色・劣化していきます。このため、三重塔・西門・阿弥陀堂については、2015年から17年にかけて、再び塗り直しを行いました。このように、一度塗装を復旧してしまうと、その美しさを維持するために一定の期間で修理を繰り返す必要が生じます。しかし、これは一方で、伝統的な塗装の技術を伝承していくための重要な機会ともなっています。

文化財保存現場から清水寺境内図

 現在では東山山腹に赤色の建物群が見えるのが当然の姿となっていますが、その背景にはこんな塗装修理の歴史があるのでした。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 島田豊)