「応仁の乱」の勃発550年を記念して催された東西両軍ゆかりの人物による対談。区民ら約360人が参加した(5月21日、京都市上京区・区役所)

「応仁の乱」の勃発550年を記念して催された東西両軍ゆかりの人物による対談。区民ら約360人が参加した(5月21日、京都市上京区・区役所)

 応仁の乱は室町時代の1467年に始まった。細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が、現在の堀川通と小川通の周辺を境に対立した。
 対談は「応仁の乱-今輝け東陣を訪ねて」と題した催しで行われた。区民ら有志がつくる東陣プロジェクト実行委員会などが区役所で開いた。著名な西軍拠点の「西陣」に比べ、東軍の「東陣」は地域名として残らず知名度が低いため、東陣にスポットを当てて乱をあらためて考えようと企画した。
 両軍代表として、細川家の美術品などを保存・研究する永青文庫(東京都)の吉丸良治理事と、全国山名氏一族会の山名靖英理事長が登壇した。
 吉丸さんは、細川家では「先の戦」が太平洋戦争ではなく応仁の乱だという逸話を紹介した。「先代当主の護貞さんが『先の戦で文書などを大事に守ってきたが、かなり傷んでいるところがある』と言っていて、よく聞くと応仁の乱のことだった」と笑いを誘った。そして、その根本には貴重な文書や美術品を守る強い使命感があると指摘した。
 山名さんは「両家は親戚関係で、宗全の娘婿が勝元だった。本来はいがみ合う関係ではなく仲は良かった」と話した。宗全の人物像は「赤入道とあだ名があるほど直情型だったが、不正を許さない人で、背中から切りつけるようなことはしなかったようだ」とした。
 乱後も長く家名を保った両家。その理由は「文化」の力だったという意見が上がった。戦国・安土桃山時代の武将、細川幽斎は古今和歌集の解釈を伝授した当代随一の文化人。また山名豊国は武将としては大成しなかったが、連歌や茶をたしなむ高い教養を持ち、豊臣秀吉や徳川家康らの時代を生き抜いた。
 進行役の井上満郎・市歴史資料館長は、11年続いた乱で京都が戦場だったのは数年とし、「宗全と勝元の個人の戦いではなく、足利将軍家や有力大名の家督争い、利害対立で起きた」と背景を説明。その上で、乱が京都にもたらした意味を「破壊だけではない。街の自治を担う町衆が成立し、混乱の中で能や狂言、歌舞伎など今に伝わる文化も形づくられた」と評した。
 最後に、山名さんと吉丸さんが握手を交わして「和睦」し、聴衆が大いに沸いた。