1953(昭和28)年8月15日の南山城水害から今年で60年になる。明日の防災・減災への願いを込め、京都府南部・山城各地の体験者の証言に耳を傾けたい。第1回は井手町の玉川。水害後に植えられた桜はいま、満開の時期を迎え、多くの人でにぎわう。60年前の夏の夜も帰省の家族が集い、古里は穏やかな盆のだんらんの時を過ごしていた。

大正池の決壊後、濁流にのみ込まれる玉水地区周辺(1953年8月16日)

 雨は8月14日の夕方から降り始めた。夜更けとともに激しさを増し、裂けるような雷鳴が響き渡った。横田勝さん(71)=京都府同町井手=は、兄と自宅兼店舗の2階で寝ていた。
 「起きよーッ」という父の怒鳴るような声がした。「土砂降り」なんかとちゃう。バケツをひっくり返したような雨やった。1階に下りると、入ってきた水で畳が浮き上がり、目の前で裏返しになった。家族6人で2階に上がり、外を見た。道から高さ2メートルほどの軒下まで水が来ていた。一斗だるがひさしにあたり、「カン、カン」と音がしとった。
 「跳んで渡れる」ほど川幅が狭かった玉川は、あっという間に氾濫し、周辺の家屋が浸水した。小学6年の紺谷保雄さん(71)=同=も、家族7人で避難した。
 午前4時過ぎやったか。水は腰まできていて30メートルも進めん。自宅よりも1メートルほど高い隣の家に逃げた。停電して誰がどこにいるかも分からん。真っ暗な6畳間で、膝の上まで水に漬かり、じっと雨がやむのを待った。話す余裕もなかったな。

 

 その直前、上流の大正池と二ノ谷池が決壊した。紺谷さんが隣に逃げ込んで間もなく、山肌をえぐった濁流が町をのみ込んだ。

 

 一瞬や。ガッサーと家が真っ二つにつぶれた。最後に聞いたのは「ウァー」という妹の悲鳴。目の前に流れてきた丸太にしがみつき、倒れる家の隙間から外へ出た。50メートルほど漂流し、商店の2階によじ登った。隣家の母娘も同じ丸太につかまっていたが、娘さんはもうだめやった。「この子も上げたって」と言った母親の声が忘れられん。
 水に押された建物が土煙を上げてつぶれ、家は回転しながら流されていた。それを屋根から、ぼうぜんと眺めてた。朝になって雨がやんだ。あたりは跡形もなく、がれきで埋め尽くされてた。無事やと思っていた家族6人全員、亡くなってた。もうあんな思い、誰にもしてほしくない。
 体験者が少なくなる中、町の悲劇を伝える取り組みが続く。地元ボランティアガイドの宮本敏雪さん(78)=同=は5年前から、町内の小学校で「語り部」を続ける。
 いまでもきつい雨が降るとあかん。「怖い」というのを体が覚えている。それでも悲しい歴史に向き合うこと。次代に語り継ぐことが災害への備えになり、きっと自分の命を守ってくれると思う。