「劉禹錫像」(松花堂昭乗筆)17世紀

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 松花堂庭園・美術館の主任学芸員川畑薫さんはある時、2人連れの来館者が「あきのりさんが…」と言い交わしながら鑑賞しているのを見かけた。同館の展示は、江戸初期の僧で書画や茶に秀でた松花堂昭乗(1584~1639年)を中心とする。一般に「しょうじょう」と読むが、あきのりさんと呼ぶ2人はまるで昭乗その人を知っているかのように親しげだった。

 昭乗は石清水八幡宮の社僧(神社で仏事を修めた僧)で、男山にある寺坊の一つ、瀧本坊の住職だった。昭乗の描く絵は温かく優しい。館蔵品のうち「劉禹錫(りゅううしゃく)像」は、小さな書斎で人物が書物の世界に浸っている姿を表した。「兼好像」も、吉田兼好が夢中で本を読んでいる。いずれも、手にした書物にはきっちりと文字が描き込まれ、ページをめくる音さえ聞こえてきそうだ。

「兼好像」(松花堂昭乗筆)17世紀

 昭乗の書は寛永の三筆とうたわれたが、同じ三筆の本阿弥光悦などに比べると静かだ。絵に詩句などの文字を添える「画賛」も、絵の空気に合わせて書き方を変えている。りんとした梅の花には王朝風の文字で、兼好には淡い色でさらさらと。自己を主張するよりは調整型の人だったようだ。

「雉子図」(松花堂昭乗画・中院通村賛)17世紀

 昭乗は戦国から江戸への転換期に生きた。芸術分野以外でも卓抜した調整能力を持っていたと思われる。対立を深めていた朝廷と幕府の融和に水面下で動いたことがあるからだ。1626年、幕府側の徳川義直と朝廷側の近衛信尋(のぶひろ)が伏見城で対面した。後水尾天皇の二条城行幸につながる重要な局面だが、この対面を計画し、仲介したのが昭乗である。

 公家、武家双方が崇敬する石清水八幡宮の社僧だったことはもちろん、昭乗自身の器量や人脈が力を発揮したと思われる。親友の大名小堀遠州は、人を引き合わせる際には昭乗の茶会を使った。表舞台には立たないが、昭乗は江戸幕府の草創期を支えた一人だった。

 50代半ばで世を去るが、最後に営んだ草庵「松花堂」がいま庭園内にある。世間から離れ、好きな書や思索に打ち込む日々。「劉禹錫像」に描いた理想の境地を実現したひとときだった。小堀遠州は親友の死を「われを置きてさきだつ人とかねてより しらで契りしことぞくやしき」と悼んだ。

 館ができた頃、川畑さんは大学院で昭乗を研究していた。縁あってここで働くようになり、昭乗を人生の先輩のように感じ、ひかれる。「人をよく観察し、深い関心と愛情を寄せた人。その書や絵は人の心を柔らかくする。魅力をさらに伝えていきたい」

 

 八幡市立松花堂庭園・美術館 松花堂昭乗とその周辺、八幡ゆかりの美術品や資料を収蔵する。このうち「雉子(きじ)図」は、元は昭乗の絵24点に知識人たちが賛を付けた絵巻だった。昭乗の没後、経営に苦しんだ瀧本坊は絵巻を手放すが、川畑さんは「坊を支える一助となり、昭乗も本望だったのでは」とみる。その後、絵巻は分断され、所蔵も各地に分かれたが、同館の購入した「雉子図」が時を経て八幡に戻った。八幡市八幡女郎花。075(981)0010。