1953(昭和28)年の南山城水害で、京都府和束町は和束川の水位が6メートルも上昇した。町を貫くこの川の氾濫で、死者、行方不明者は112人(京都府調べ。当時の西和束、中和束、東和束村の合計)に上った。

和束川の氾濫で被害を受けた中和束村の家屋(1953年8月15日、和束町役場提供)

西和束村に住んでいた竹谷奈代さん(73)=和束町石寺=は当時中学2年生。川沿いの商店で祖父、妹と3人で暮らしていた。8月14日の夕方から降り始めた雨は深夜にかけて猛烈に勢いを増した。
 「早よ起きてこーい」と祖父の声で目を覚ました。川が道の高さまで来て、水がたぷん、たぷん、と出てくるのが見えた。見る見るうちに道が川になってしもうて、店先に水が滝のように入ってきて、ぐるぐるっと渦巻いて商品を持って行った。「流れるー」と止めようとしたが、まるで津波のようやった。
 はす向かいのたばこ屋は少し高い場所で、無事だった。祖父が「値高いもん(商品)を運べ」というので、水に浮いた商品を踏み、腰まで漬かりながら、たばこ屋まで何回か酒を運んだ。そうしていると近所のおじさんに「われ何してんのぞーっ」と怒鳴られた。「酒運んでんねんかー」というと、「こんな時に何言うてるかーっ」と、酒瓶を持ったまま引きずり上げられた。
 そこも水が増え、土手に上がった。そこで無事だった妹と会えた。家が流される時、ガラスが「バババーン」と音を立て、魚みたいに飛び散って上がるのが見えた。
上流の中和束村は死者、行方不明者の大半、101人という大きな被害を出した。橋や道路が寸断され、救援も遅れた。川沿いに家があった山口正和さん(71)=同町釜塚=は、暗闇の中、必死で避難した。

 

 雨はバケツで頭から水をかけられたような感じやった。あたりは真っ暗で、雷がピカッと光ると同時に家族で走って山の方に逃げ、無事やった。
親戚が笠置の方から来たが、橋が全部流れて近づけなかった。救援部隊は、宇治田原方面からリュックサックを背負って山越えで物資を運んでいた。ヘリコプターが運んできたドラム缶入りのミルクの粉を溶かして飲みました。
 妻の忍さん(66)も近くで水害を体験した。雨が降り始めたころ、川沿いの親戚の家にいた。盆踊りの季節で泊まるつもりだったが、父親が迎えにきた。ぐずる忍さんを親戚の若者が「またあしたおいで」と説得して帰らせた。その夜、その家は流され、親戚たちはみな亡くなった。

犠牲者の名前を刻んだ石碑の前に立つ山口忍さん。「私の名前がここにあったかも」との思いが胸をよぎる(和束町釜塚)

 親戚のお兄ちゃんが私を背負うためのへこ帯を父に渡したのを覚えている。家に帰ってから父が親戚に避難を呼び掛けに行ったが、もう近づけなかったそうだ。父は「『助けてー、助けてー』という声が耳から離れん」と言っていた。今でも慰霊碑に手を合わせるたびに、私が113人目やったかもしれん、と思う。