卒業式後に女子生徒が男子からもらう第二ボタンの風習は、どんなきっかけで始まったのだろう。そもそも、なぜ第一ではなく第二なのか。その答えを求めて関係者をたどった。その起源には、第2次世界大戦中に実際にあった出征悲話が大きく関係していそうだ。

村田堂に残るボタンコレクション。手前真ん中は戦時中の陶器製(京都市中京区)

 「男女間の秘めたやりとりで記録に残りにくいので分からないですね」。京都市学校歴史博物館(下京区)に「第二ボタン」の起源を尋ねると、和崎光太郎学芸員(40)は即答した。
 和崎さんの紹介で、明治22年創業の学校服専門店「村田堂」(中京区)を訪れた。同店には旧制第三高等学校などのボタンコレクションがある。長屋博久取締役(48)は「うちは学生服の歴史とともに歩んできました」。何かヒントを得られそうな予感がしてきた。
 額縁に収められたボタンの数々。金属製の中にちょっと色合いが異なるものがあった。「これは陶器。金属が不足した戦時中に作られました」。明治の幕開けとともに導入された学生服は、いわばエリートの象徴。襟元で光るボタンの重みは、今とは比べものにならないだろう。希少さが乙女心をくすぐったのかも。
 取材の中で、学生服メーカー「トンボ」(岡山県)で研究員時代に第二ボタンについて調査したユニホーム研究家、佐野勝彦さん(66)=奈良市=に行き着いた。近著に「女子高生 制服路上観察」(光文社新書)がある。「一部では映画で広がったと言われていますが、私の説は違います」

映画「予科練物語」より

 佐野さんが言う映画は「予科練物語 紺碧の空遠く」(1960年)。この中で、予科練生が特攻隊の出撃を控え、胸の第二ボタンを引きちぎって思いを寄せる少女に渡す場面がある。
 原作にも脚本にもない故井上和男監督の演出という。2008年に第二ボタンの起源をたどるテレビ番組のインタビューで、第二ボタンの理由を聞かれた監督は「だって一番心臓に近いボタンでしょ」と答えた。
 佐野さんは独自の聞き取り調査をする中で、大阪のある校長先生にたどり着いた。その先生に聞いた話では、戦後、全国の新制高校の校長が集まる機会があった。そこで北関東のある校長が戦争末期の教え子に関する逸話を披露した。

開戦直前の春、嵐山を訪れた旧制第三高等学校の寮生たち。第二ボタンを残して出征した生徒もいるのだろうか(第三高等学校80年史より)

 出征した兄の帰りを待つ義理の姉に恋心を抱いた同居の弟が、遅れて戦地に赴くことになった。物資不足で軍服ではなく学生服で出征することになり、「自分の分身として大切にしてほしい」と第二ボタンを渡したという。この話に心動かされた全国の校長先生が各校に持ち帰って生徒たちに語り、やがて別れの季節の恒例行事のように定着していったという説だ。「軍隊には同様の慣例があったそうですが、全国的に知られるのはこれ以降」と佐野さんはみている。
80年代には斉藤由貴さんの「卒業」(作詞・松本隆さん)や柏原芳恵さんの「春なのに」(作詞・中島みゆきさん)の歌詞にも制服のボタンは登場し、広く認知されることになった。
 では、その衰退はいつ頃から始まったのか。
 佐野さんは95年頃を挙げる。95年と言えば、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起き、ウィンドウズ95の日本発売でインターネット時代が幕を開けた激動の年と言える。「女子高生の援助交際やルーズソックスが話題になった。規範が崩れ、若者から初々しさがあせていった」。それから20年余りが過ぎ、「第二ボタン文化」は戦争の記憶とともに過去のものとなりつつある。(樺山聡)