雪村周継筆「風濤図」(重要文化財)

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 近代実業家の収集品を核とする美術館が各地にある。野村美術館(京都市左京区)は野村証券などの創業者野村徳七(号は得庵。1878~1945年)のコレクションを母体とする。

 得庵は収集品を全25冊の蔵帳に記録した。掛け物、各種茶碗(わん)などインデックスをつけて、自ら絵を描き、価格や寸法を記入し、どの蔵に納めたかという印も押した。入手した品は手放さず、終生手元で大切にした。

 「集中力が高く、仕事にも趣味にものめり込んだ人」と学芸員の奥村厚子さんは分析する。当時の経済人のたしなみとして茶をよくし、茶会は、自ら催した場合も人に招かれた場合も記録している。出された道具を記憶し、帰宅後にデッサンを添えた。特徴を捉えた描き方は、見る能力の高さを示す。

 収集品は名品揃いで逸話も多い。「種村肩衝(かたつき)茶入」は江戸の絵師狩野探幽のもので明暦の大火で焼失したかと思われたが、京で見つかり、探幽の元に戻ったため「都帰り」の別名を持つ。その後、大名茶人である松平不昧(ふまい)が所有し、荏原(えばら)製作所の創立者畠山一清が手に入れるはずだったが、得庵がどうしても欲しいと懇願。畠山は、それを用いた最初の茶会に自分を招くとの条件で購入を譲った。

野村得庵筆 茶会記

 雪村周継筆「風濤(とう)図」は木が嵐に耐える姿、小雨交じりの空気の描写など近代絵画のような繊細さと迫力に満ちる。1939年にベルリンで開かれた日本美術展でヒトラーが絶賛したという。前の所有者は大阪証券界の大物、島徳蔵。世界経済悪化で没落し、愛蔵の美術品を売りに出したが、不仲だった得庵に購入され、憤りのあまり明細書を燃やしたといわれる。

 戦争が近づく中、得庵は頻繁に所蔵品を整理した。戦災の危険に加えて自身に持病があり、何かあった場合も散逸しないようにと考えたのだろう。当時の実業家たちの美術品収集について、奥村さんは「個人的な楽しみを超えて、古美術品を守り、散逸や国外流出を防ごうという信念があった」と評価する。

 大戦終結前に得庵は没し、畠山との約束の会は開かれなかった。苦労して入手しながら披露できなかった名品もある。だが、その愛情のおかげで優れた古美術品を今も国内で見ることができる。

 

 野村美術館 茶道具や能楽関係の約1700点を所蔵。春秋の展覧会には全国からファンが訪れる。秋季展「懐石のうつわ」には秋・冬のうつわのほか、100年前にフランス・バカラ社に注文されたガラスの懐石具一式を再び展示する(春は予定を切り上げて終了)。コロナ禍で「今後、何ができるか」を考え、作品をより掘り下げて鑑賞する講座などを検討中という。京都市左京区南禅寺下河原町。075(751)0374。