2階にある部屋に立つ藤原栄美子さん。畳の間はカーペット敷きになり、宴会もテーブルで行うように変わった(米ハワイ・ホノルル市)

2階にある部屋に立つ藤原栄美子さん。畳の間はカーペット敷きになり、宴会もテーブルで行うように変わった(米ハワイ・ホノルル市)

 日米開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃で、米艦隊の動静を調べた日本海軍スパイの拠点となった料亭が、同湾を一望できる丘に現存する。創業98年、今も現地の人でにぎわう店は、京都から嫁いだ女性(84)が戦後、女将(おかみ)として切り盛りしてきた。「戦争は嫌。新しい時代になってもしてはいけない」。平成最後の年に、激動の戦中戦後を生き抜いてきた女性は静かに語る。

 藤原栄美子さん。1934(昭和9)年、朝鮮で生まれた。父は弁護士で、初の公選制となった47(昭和22)年の京都府知事選にも出馬した市井栄作氏。藤原さんは過去に判事だった父について福知山や中国にも住んだことがあるが、実家は宇治市にあり、中学から平安女学院で学んだ。63(昭和38)年、ロータリークラブの会合で来日していた料亭の主人で日系2世のローレンス・幸雄・藤原さんと知り合って結婚、ハワイに渡り女将としての人生を歩み始めた。

 料亭は21(大正10)年に「春潮楼」として創業。ハワイに多い日系人らでにぎわった。その中に、日本海軍の専門情報員だった故吉川猛夫氏もいた。吉川氏は41(昭和16)年3月、「森村正」の名でホノルルの日本総領事館員としてハワイに潜入。真珠湾を一望できる春潮楼の立地に目をつけ、同年12月の日米開戦までの間、客を装って訪れては2階の部屋から望遠鏡をのぞき、米艦隊の種類や隻数、停泊位置などを調べて日本に打電した。

 「主人の父は四国出身。吉川さんは愛媛出身で同郷なの」。藤原さんはこう話し、「昔は木々や建物も少なく、もっと見晴らしは良かったはず」と、2階の部屋から当時の様子を想像する。日米開戦後、ハワイの日系人は迫害され、春潮楼も接収されて消防の拠点として活用されたという。58(昭和33)年に幸雄さんの兄が買い戻し、「夏の家」の名称で再出発した。

 「料亭と言っても小学校の校舎みたいな造りでびっくりした」。地元住民の宴会でよく使われ、米本土からの団体客が「スキヤキパーティー」を楽しむこともあり、藤原さんは毎日遅くまで働いた。「船の汽笛を聞くと日本に帰りたくなったこともありました」

 子どもの頃、空襲から逃れた経験があるだけに、息子に経営を任せた今も平和への願いを込め、料亭を訪れる人たちにその歴史を伝える。父親が事務所を構えていたビルは京都市中京区の京都地裁近くに残るが、「おおらかなハワイが好き。仁和寺に実家の墓があるけど、私は海に散骨してもらうの。そうすれば(海流に乗って)どこにでも行けるでしょ」とほほ笑んだ。