河井寬次郎 辰砂刷毛目扁壺(1937年頃)

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 河井寬次郎記念館(京都市東山区)には来館者が感想などを記入するノートがある。中国語で「感激した」、英語で「奇跡の体験をありがとう」など各国の言葉が並ぶ。日本語では「やっと来られた」「40年前と変わっていないことに感動した」というメッセージ。記念館の長い歴史を表しているようだ。

 陶芸家河井寬次郎の住居と登り窯を1973年、記念館としてオープンさせた。3年後に開館50年を迎える。来館者は置かれたいすに自由に座ることもでき、設立当初から変わらぬ空気が世界の人々を引き付ける。

寬次郎作品がさりげなく置かれた館内

 家族でその空間と作品を守ってきた。学芸員の鷺珠江(さぎたまえ)さんは寬次郎の孫に当たる。「私自身もファン。身内でなければ素晴らしさをもっと大声で言えるのに」と、作品だけでなく寬次郎の人柄にひかれると話す。

 活気に満ちた家だったという。寬次郎夫妻、娘夫妻、孫の鷺さんら三姉妹、そして住み込みの書生や行儀見習いの女性らもいた。そこに日々、来客がある。現代のように電話で事前に約束するわけではない。遠方の人が汽車で早朝に訪ねてくることもあり、寬次郎の妻は毎朝4時に起き、来客に備えて掃除をしていたそうだ。

 寬次郎はどれほど多忙でも、食事は必ず一家全員で囲み、桜の季節には花見、夏には海水浴に出かけた。寬次郎の「辰砂刷毛目扁壺(しんしゃはけめへんこ)」(館蔵品)の美しい淡紅色や、「呉洲刷毛目大壺(ごすはけめおおつぼ)」(同)の深い青には、家族で見た桜や海の記憶が反映されているのかもしれない。

河井寬次郎 呉洲刷毛目大壺(1939年頃)

 創作者としての寬次郎は「自分の中から何が出てくるか」をどこまでも見つめる人だったという。苦労して手に入れた技法も、完成させるととらわれず次に向かう。研究を突き詰める生真面目さの一方で、角張った作品にも必ず丸みが見られるように、柔らかさを失わない人だった。晩年には石油コンビナート、消波ブロック、道路工事の土管など「現代の機能美」にも興味を示した。

 寬次郎の人物の大きさに癒やされたのか、「来て救われた」とつらい経験を打ち明けた来館者もいる。「寬次郎が暮らし、愛した空間で、あまたの作品を生んだ胎内でもある。寬次郎の気配に触れてほしい」と鷺さんは話す。

 

 河井寬次郎記念館 寬次郎は丸いものが好きで、作品のさまざまな箇所に丸や球体を用いた。館内にも、球体の庭石、まん丸な遺品の懐中時計などが展示される。黒光りする床板や階段を、日本の伝統的な居住空間として見学する外国人客も多い。「ここを知らないのか」と外国人の友人に連れられてくる日本人来館者もあるそうだ。京都市東山区五条坂鐘鋳町。075(561)3585。