透明文字盤で話すALS患者の甲谷匡賛さん。家族にも病院にも頼らない生き方に挑む(京都市)

透明文字盤で話すALS患者の甲谷匡賛さん。家族にも病院にも頼らない生き方に挑む(京都市)

 透明のボードに書かれたひらがなの五十音表をはさんで、甲谷匡賛さん(50)の瞳の動きを追う。目線が合ったひらがなをひと文字ずつ、声に出していく。

ぎやらりーがほしい かふえがしたい にしじんがよい

 どの字を選んでいるのか迷うと、文の脈絡が崩れてしまう。「西陣」ならまだしも、甲谷さんの好きなチベット仏教の言葉になると、ひとつの文を解読するのに時間がかかる。

 京都市中京区でヨガや整体の施術院を開いていた甲谷さんは6年前、体の異変を感じた。言葉が話しにくい。手足も動かなくなっていく。大学病院で筋萎縮性側索硬化症(ALS)と告知された。

 全身の運動神経が機能しなくなっていく神経難病だ。息をする力も衰えるが、人工呼吸器とともに10年以上暮らす人もいる。重い介護負担。7割の患者は人工呼吸器を付けずに亡くなる。終末期医療や安楽死が議論されるたび、ALSの名が取りざたされる。

 昨年の冬。京都の病院を転々とし、甲谷さんの入院生活は3年を越えていた。四肢機能の全廃。声を失った。わずかに上下できる左手をセンサーが感知し、パソコンで1行に小1時間かけてメールを打って、絵を描く。硬直発作が起きると、やせた体のどこに力が潜むのかと思うほど手や足が震え、こわばる。むせかえりも激しくなってきた。

 「肉体的苦痛には過去も未来もない。今だけだ」。「弱くなるほど意識は広がる」。死や苦を深く見つめる言葉が、インターネットに開設したブログ(日記風サイト)に並ぶ。

 「笑いながら逝きましょうか」。そう書いた日もあった。

 昨年1月。甲谷さんは川口有美子さん(45)の訪問を病室で受けた。川口さんはALS患者の母を持ち、NPOさくら会(東京都)の理事を務める。

 「ひとりで街で暮らせるよ」。紹介したのは難病患者の在宅生活の新しいかたち「さくらモデル」だった。

 家族はひとつもケアしないで、患者自身が社長になって、素人をヘルパーに育成するの。東京ではそうやって暮らす人が出てきている。関西では誰もやっていない。一緒に風穴を開けようよ。

カーテンが揺れるので 風が吹く わたしが気持ちいいというので 五月の風が吹く(2006年5月)

 進行性の神経難病ALSを発症した甲谷匡賛さん(50)はわずかに動く左手でインターネットのブログ「甲開日記」を綴ってきた。

 「療養病床の雰囲気は一般病床とは違う。時間の流れが止まったようだ。死とは未来がないことだ。この病棟で死と向き合う」。「24時間姿勢を気にしなければならない病気。それが伝わらない」。昨年1月、日記はほぼ1日に1行だけとなった。

 「社会的入院」という言葉がある。地域に受け皿があれば病院を出て暮らせるのに、それでも長く長く入院する人たち。国は病院から地域への移行を掲げ、病院にいる日数の短縮を数値目標で設定。慢性期の入院患者に対する病院への診療報酬を引き下げ、療養病床の削減も打ち出した。

 「国の医療制度改革や療養病床の削減は財政難を理由にした弱者の切り捨てで、医療難民や介護難民を生む」。医師会や病院はそう批判する。国の基準で療養病床を削減すれば、京都府では約4千床減って、ベッドは約2千床となる。多くの患者が行き場を失うおそれがあり、府は独自に削減率を緩和した案を今年まとめている。

 トイレの時間まで病院の都合に合わせて決められたスケジュール。でも患者の立場は弱い。「病院の扱いに不満があっても声を挙げることができない」。長く入院生活を送る筋ジストロフィーの患者は打ち明ける。

 甲谷さんが出会った「さくらモデル」とは東京のALS患者や家族でつくるNPOが始めた。患者自身が探してきた一般の人に介助の方法を自分で教え、ヘルパーの資格を習得させる。

 五感や意識ははっきりしているが、やがて寝たきりへと進行する神経難病ALSの介護は意思疎通の壁もあり、負担が重い。しかし患者の育てたヘルパーが長時間連続で介助すれば、その人固有のニーズに合わせたケアが上達していく。こうした「自薦ヘルパー」を登録する事業所を患者自身がつくり、家族の介護に頼らず、24時間他人介護で自立した生活を始めるALS患者が東京で少しずつ生まれている。

 ALS患者の7割が息が苦しくなってきたとき、人工呼吸器を付けずに亡くなる。人工呼吸器を選択せず亡くなったあるALS患者は、生きたいと望みながら「患者になっても思いやられる存在ではなく、家族のことをまた思いやる存在でもある」と話していた。ALSだけではなく、家族の介護負担や生活を思いやり、病院や施設で暮らすことは多くの病や障害にも共通する。

 全国で約6700人といわれるALS患者の23%が人工呼吸器を選択しているが、京都府の装着率は13%と大きく下回っているという調査がある。都道府県ごとのばらつき。そこには入院患者の命を左右する福祉行政の格差がある。

◇  全身の運動機能を失っていくALS患者が家族と離れ、まちでひとりで生きることを決意した。ダンスの稽古場を併設し、24時間介護の生を社会に開く例のない試みだ。誰かの支えがないと一刻も生きていけない甲谷さんに密着し、病室から在宅へと移行する1年3カ月を見つめた。支えることの意味を考えさせられた。(社会報道部 岡本晃明)=7回掲載します。