見つかった「南満無宿放浪記」と写真集。写真集には関東軍司令部の技術雇員時代に撮影の訓練をする勝見さんの姿があった。この2年後、1年以上に及ぶ逃避行が始まる(京都府亀岡市篠町)

見つかった「南満無宿放浪記」と写真集。写真集には関東軍司令部の技術雇員時代に撮影の訓練をする勝見さんの姿があった。この2年後、1年以上に及ぶ逃避行が始まる(京都府亀岡市篠町)

勝見さんがたどったルート

勝見さんがたどったルート

 満州で終戦を迎え、1年以上の逃避行の末、京都市の実家に帰還した男性の回想記が見つかった。同窓生や家族向けに作った冊子だが、ソ連軍の収容所から脱走、潜伏し、約400キロを踏破した体験が詳細につづられている。

■「生きたいと思う気持ちがあればこそ 何でもできる」

 中京区のろうけつ染め職人だった故勝見文平さんの「南満無宿放浪記」(71ページ)。1997年1月、廃業を機に冊子を仕上げ、京都市立第一工業学校(現・京都工学院高)の同窓でつくる「みどり会」の記念として、写真集とともに15部製本していた。
 勝見さんは43年10月、満州の関東軍司令部の写真室に技術雇員として就職。その後召集され、44年12月、南嶺通信連隊に入営する。ソ連侵攻で混乱する中、新京(長春)で終戦を迎え、1カ月分のコメと缶詰、12円50銭を支給され除隊した。
 「非合法の除隊ゆえ何等それを証明できる書類とてなく(中略)、ソ連による敗残兵狩りに身を潜めて暮らすこととなる」
 知人の家に居候し、住民としてソ連の使役に駆り出されもするが、45年10月半ば-。
 「『ソ連軍から除隊証明を発行する』と回報があった。何か胡散なものを感じたが(中略)案の定、捕虜にされた」
 収容所は3重の有刺鉄線が張り巡らされ、外には家族の姿を探し必死に叫ぶ女性らがいた。脱走を試みた知人は刺殺された。12月末、ソ連兵が撤収し中国国民党軍が進駐。捕虜引き渡しの空白期間があり、46年元旦、仲間の大使館嘱託職員らと脱出。日本への密航船が出ているという大連に鉄道で向かうが、船は出なかった。
 5月、今度は新京や奉天(瀋陽)で日本人の引き上げが始まったと知り、8月15日、徒歩で大連を脱出。日本人は追い返されるとされた石河のソ連軍監視所では、出てきたソ連兵に平静を装いロシア語であいさつすると、通過できた。
 「勤務を終えたソ連兵が純朴な人間に戻ることは何度も体験していたが、多分そうだったのだろう」
 国民党軍と対立する中国共産党軍の支配域に入ると、偽装の通行許可書でかわしたり、入隊要請をはぐらかしたりして逃走。一面のトウモロコシ畑の真ん中に延々と鉄条網が連なる蓋平の軍事境界線にたどり付く。たき火の煙が見える場所などを避け、畑の中をほふく前進。鉄条網の壊れた所を見つけ、国民党軍の支配地に到着した。大連脱出から13日後、8月28日のことだった。
 「死ぬ気になれば何でもできるはずというが、生きたいと思う気持ちがあればこそ何でもできる」
 回想記では、収容所で「シベリア送り」にされないよう病気を装ったり、日本人女性に英語を教えて稼いだりした様子もユーモラスに描かれる。長女の北本都紀子さん(70)=亀岡市篠町=は「あちこちに連れて行ってくれる楽しい父でした。文面にも人柄が表れていて思い出します」と話していた。
 勝見さんは97年、73歳で亡くなった。命日は、満州から京都に帰還した日と同じ10月13日だったという。