ALS発症前の20代前半の林優里さん。友人と海外旅行を楽しんでいた(1992年2月、遺族提供)

ALS発症前の20代前半の林優里さん。友人と海外旅行を楽しんでいた(1992年2月、遺族提供)

 写真アルバムをめくると、旅先のエジプトや欧州で、はじけるように笑う女性が現れた。自ら依頼し、殺害された筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の林優里さん=当時(51)。京都新聞社の取材に応じた父親(79)は「精いっぱい生きた。娘本人が納得して選んだこと」と自らに言い聞かせる一方、「あまりに突然の別れで死に目に会うこともできなかった。逝く方も残された方もつらい」とつぶやいた。

■発症後も明るく気丈で、父親の支えだった

 優里さんは同志社大を卒業後、一度は東京の商業施設に就職。退社し、設計士を目指して米ニューヨークで長く暮らした。

 2001年には父親を現地へ招いた。「アルバイト先の日本料理店や本場のジャズ演奏会に連れていってくれた。本当に楽しい旅だった」と懐かしむ。

 優里さんは帰国後の11年ごろから体に異変が現れ、ALSと告知された。高齢の父親にかかる介護負担を気遣い、マンションでの一人暮らしに挑んだという。

 当初は公的ヘルパーの派遣が1日24時間埋まらず、空いた時間は父親がケアにあたった。「(五十音を記した)文字盤で一文字ずつ字を追ううち、前の文字を忘れて、話がつながらなかったり。たん吸引もやったけど、うまいことできしまへんでしたな」。車いすを押して、よく自宅の回りを散歩した。約20年前に妻を亡くした父親にとって、明るく気丈な長女の優里さんは心の支えだった。

■車いすでハワイ旅行、一方で「生きるかどうか」の選択に涙

 発症から7年を過ごしてきた。「優里はALSになっても、自分でホテルを予約して車いすでハワイ旅行に行った。何事も自分が納得するまで貫くような子でした」

 優里さんは、病が進行しても人工呼吸器を着けないと周囲に語っていた。医師やケアマネジャーが患者の意思を定期的に確認する「カンファレンス」では、呼吸器を装着する有無について繰り返し尋ねられた。「生きるかどうか」の選択を何度も迫られるつらさ。優里さんはその思いを泣きながら父親にぶつけていた。

 「親に向かって安楽死したいなんていう子はいないでしょ」。ケアマネジャーから、優里さんが安楽死を認めるスイスへの渡航を望んでいる、と間接的に知らされた。「内心ではそんなことを考えていたんや、と正直ショックでした」

■父親が抱く容疑医師への思いとは

 昨年11月30日。突然訪れた、娘の死。父親はヘルパーからの連絡を受けてマンションに駆け付けた。娘からは何も聞かされていなかった。「すでに優里は息も絶え絶えな状態だった。あまりに急なことで、何の心の準備もない。気が動転してね」

 優里さんを殺害した容疑で逮捕された医師2人は、130万円を受け取ったとされる。容疑者の話題になると、いつもは穏やかな父親の声が大きくなる。「娘の生死をまるで商売みたいに扱って。犯人にくそったれ、と思う。悔しい。許せない。なんでこんな卑劣なやり方するんや」

 娘の声が聞こえるような気もする。「今ここに優里がいたら『お父さん。私が決めたことだから、もういいやんか。そっとしておいて』というかもしれない」。互いを思いやっていたが故に、娘も父親に打ち明けられないことがあったのだろう。「娘がつらいのをずっと見てきた。病気になった人にしか分からない葛藤があったんやろう」。自らに言い聞かせるように言葉を絞った。