すぎやま・たかし 1978年生まれ。カント、ヘルダーを通じ「美学」の語源「感性」の言説史を研究。筑波大などを経て2016年から現職。共著に「芸術理論古典文献アンソロジー 西洋篇」。

 米国の白人警官による黒人暴行死事件は、大規模な人種差別抗議運動(Black Lives Matter=BLM運動)へ、さらに、人種差別主義者たちの銅像・記念碑の撤去という動きをもたらした。私は、これに既視感(デジャヴ)を禁じえなかった。

 フランス革命期、旧体制(アンシャン・レジーム)を象徴する美術品(国王像など)の大量破壊行為が横行した。この行為は、西ローマ帝国を侵略しローマ市を略奪したヴァンダル人にちなんで「ヴァンダリズム」と呼ばれた。テルミドール九日のクーデター(1794年7月27日)で恐怖政治の幕が下りた直後、グレゴワール神父は国民公会で「ヴァンダリズムについての報告」を行い、「エジプトのピラミッドが専制政治により専制政治のために建設されたからといって、こうした古代の記念物が取り壊されるべきであろうか?」と、この行為を非難告発した。

 たとえ旧体制を象徴する美術品であっても保存されるべきであるというグレゴワールの主張は、翌1795年のフランス記念物博物館開館により、制度的に実現する。日本はこれを、約1世紀後に廃仏毀釈(きしゃく)→古社寺保存法(現在の文化財保護法の前身)として繰り返すことになる。

 ところで、旧体制を象徴する美術品の破壊という行為自体はフランス革命以前にも見られるが、なぜフランス革命期のそれは反動的に美術品保存へとつながったのだろうか?

 明確な因果関係はなく推測にすぎないが、同時期に「美」の判断の理論が哲学的に整備されたことと無縁ではないように思われる。ドイツの哲学者カントは『判断力批判』(1790年)で、美の判断が「関心なき満足」に基づくと指摘した。

 「関心」とは、対象の実際の存在に対する意識であり、「利害」と解してもよい。たとえばリンゴを前にして、それがおいしいか、栄養があるか、いくらで売れるか、といったことを意識している限りは、それを「美しい」とは判断できない。

 実際のリンゴをめぐる諸要素を捨象し、色や形といった「現れ」だけに注目した時にはじめて(それが満足を与えるものであれば)「美しい」と判断される。「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)までも」ではダメなのである。美術品を制作意図(君主の顕彰)から切り離し、純粋に美的価値ゆえに保存すべしというグレゴワールの主張との並行性が、見て取れるだろう。

 もちろん、制作意図と切り離した価値は美術品には存在しない、という考えも(冒頭に記した銅像撤去の動きが示すように)あろう。だがそれは、美が政治に回収され固有の価値を失うことになりかねない。(京都大文学研究科准教授)