平安神宮風景文小蓋壺

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 並河靖之七宝記念館(京都市東山区)の主任学芸員武藤夕佳里さんによると、同館のある三条白川一帯には明治時代、七宝業を営む事業所が20余りもあったそうだ。金属素地にガラス質の釉薬を焼き付けて装飾する七宝は、明治期に隆盛を極めた。

 記念館は七宝家、並河靖之(1845~1927年)の住居兼事業所に2003年に開館した。きらめく色彩と優美なデザインで愛された「並河七宝」がここで作られていた。来館者は、作品とともに、新時代を切り開いた並河靖之の生き方にも思いをはせることになる。

 並河靖之は川越藩京都留守居役の家に生まれ、青蓮院の坊官職を務める並河家に養子に入り、青蓮院宮入道尊融(そんゆう)親王(後の久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)親王)の近侍となった。そして明治初年、親王家に勤めながら七宝という未知の分野で起業した。明治維新で政治体制や身分制度が激変する中、経済的安定を得るため、副業として挑戦したのだ。

 試行錯誤が続いたが、同業者である錦雲軒稲葉の助けもあって販路を得、作品は国内外の博覧会で受賞を重ねた。宮家の勤めを辞して専業となり、自邸を改築した。

 高品質の追究は作品の華麗さに見て取れる。「平安神宮風景文小蓋壺(ふたつぼ)」は、緑に煙る東山と、琵琶湖疏水とみられる青い流れの対比が美しい。「若竹蝶(ちょう)文角皿」は生き生きした若竹の動きが、それを吸い込むような深い青に映える。

 靖之の努力の裏には常に「宮様近侍として恥じぬよう」との思いがあったのだろう。七宝専業となったが、靖之は生涯、朝彦親王を大切に思い、その子どもたちを一時自宅で養育するなど運命共同体であり続けた。

 経済変動もあり七宝などの高級品が売れなくなったと感じた靖之は1923年、一代で事業を清算した。その潔さにも宮様近侍の誇りが感じられる。

 記念館開館の翌年、起業時の靖之を助けた錦雲軒稲葉七宝が店を解体した(廃業は94年)。同店関係者は七宝の制作工程見本など家伝の品を託し「並河さんの記念館ができて、この地域の七宝の歴史が伝わるのがうれしい」と話したという。明治、大正期を彩った七宝家たちの足跡もここで次世代に受け継がれていく。

若竹蝶文角皿
 

 並河靖之七宝記念館 靖之が暮らし、七宝業を営んだ旧邸が記念館となっている。庭は作庭家の7代目小川治兵衛が手がけた。1894年の日出新聞に「新宅落成」として、邸内や庭の様子が細かな装飾に至るまで詳しく紹介されている。庭園の水は七宝研磨用に琵琶湖疏水から引いた。邸内の工場では二十数人が働いていたといい、並んで絵付けする人々の写真が残る。京都市東山区三条通北裏白川筋東入ル堀池町。075(752)3277。