京大生が開いた日本初の総合原爆展で配布された原爆体験記。表紙にはうつぶせで頭を抱えている女性を描いた丸木俊さんの絵があしらわれている

京大生が開いた日本初の総合原爆展で配布された原爆体験記。表紙にはうつぶせで頭を抱えている女性を描いた丸木俊さんの絵があしらわれている

 1951年7月、京都大の学生が京都市内で開いた日本初の総合原爆展で配布された原爆体験記の冊子が、5日までに見つかった。原爆投下時に小学生や高校生、軍人だった被爆者13人の手記などを掲載し、自身も被爆した広島出身の京大生の手記も含まれている。同展は、戦後の反核運動の先駆けとなったが、展示・配布資料の実物はごく一部しか現存せず、京大大学文書館の西山伸教授は「原爆体験記を発行したという証言はあったが、実物を見たのは初めてで、貴重な資料だ」としている。

 総合原爆展は京大の全学学生自治会「同学会」が京都駅前にあった丸物百貨店で開いた。当時は連合国軍総司令部(GHQ)から原爆に関する報道が統制された占領期だったが、各学部の知見を集め、放射線が人体に及ぼす影響や、爆発後の熱線や爆風の広がりを示すパネルを展示した。広島と長崎の惨状を伝える写真や瓦、画家の故丸木位里(いり)・俊(とし)夫妻の「原爆の図」5部作の初公開もあり、10日間で約3万人が来場した。

 原爆体験記は、京大医学部出身で89年に亡くなった医師榎本貴志雄さんの遺品に含まれているのを京都新聞社が確認した。

 B5判、52ページのガリ版刷りで、原爆展の会場で来場者に配られた。手記を寄せたり聞き取りに応じたりした13人中12人は広島で被爆し、1人は明記していない。家族や友人の最期の姿、がれきの中で子が母親を求めて泣き叫ぶ光景、壊滅した街並みを克明に記し、「忘れようとしても忘れられぬ苦しい記憶」「地獄以上のもので到底満足な描写はできない」などと記している。京大生たちによる反戦平和詩や広島出身の作家原民喜の詩も掲載している。

 後記には原爆体験記編集委員会名で「原爆体験者の心からの願い、叫び、怒りと悲しみを全ての人々に訴える」と発行目的を説明している。委員会は体験記の企画が持ち上がった51年6月以降、被爆者への聞き取りのため京大で懇談会を2回開き、広島や長崎、東京でも手記を募った。しかし被爆者への偏見が厳しい時期だったことから応募数は少なく、募集期日を延長することで「漸(ようや)く十数篇を得た」と編集時の苦労を記している。

 西山教授は「記憶が生々しい時期で被爆者の口は堅かったのだろう。しっかりとしたつくりで、学生たちの思いがよく分かる資料だ」と話している。