原爆体験記の編集の中心を担った広島出身の文学部生が書いた手記

原爆体験記の編集の中心を担った広島出身の文学部生が書いた手記

 占領期の京都で京都大の学生らが開催した日本初の総合原爆展。配布された体験記の編集では、自身が広島で被爆した文学部生の男性が中心的役割を担った。男性は自ら手記を寄せ、その後も他の被爆者への聞き取りに加わるなど惨禍を伝える活動に情熱を注いだ。しかし、今は高齢となり、語り継ぐことも困難になっている。原爆投下から75年。男性の来歴は、戦時の記憶を継承する難しさを示す。

 男性は現在90歳。記者が取材を申し込んだが「思い出したり話したりするのに疲れた」ことを理由にかなわなかった。男性の妻によると、数年前から体調を崩し、原爆に関することは口にしなくなったという。

 当時文学部にいて、原爆展を主催した京大同学会で広報を担当した小畑哲雄さん(93)=京都府八幡市=によると、男性は広島出身との理由で原爆体験記の編集を任された。その時まで男性はほとんど被爆体験を語っていなかった。「京大作家集団」に属し、同集団に在籍した作家の故小松左京さんや故高橋和巳さんとも交遊がある文学青年だった。

 体験記では「忘れえぬこと」の題で、自宅で被爆した15歳の体験を5ページにわたり紹介し、壊滅した家を「柱や梁(はり)から壁という壁、天井、屋根、建具をはらい落し、吹き飛ばした家の残骸が、まるで恥部を表わした人間のように、二た目と見られぬ恰好(かっこう)で突っ立っていた」、自身のやけどは「背中の方はお椀(わん)でも伏せたような火ぶくれで、手をまわしてみるとゴム風船のようなブヨブヨした触感だった」と生々しく描写した。

 男性は京大を出てから広島へ戻って高校の教壇に立ち、退職後は修学旅行生らに被爆体験を伝える語り部を務めた。63歳だった1992年、原爆展に関わった学生たちが結成した「『原爆展』掘り起こしの会」の機関誌で体験記の編集を回想した。「被爆者がいると聞けば、市内を歩いてたずねて原爆体験を聞くのです」とする一方、「話をするのを非常に嫌がる人もいて、『いまさら話して何になるか』と追い出された」こともあったと記した。

 小畑さんは原爆展を開いた時代背景について、ソ連による原爆開発(49年)と、朝鮮戦争(50~53年)での核兵器使用への危機感があったとし、「原爆の被害を多くの人に伝えないといけないと純粋に考えていた」と話す。

 原爆展の約4カ月後、昭和天皇の京大訪問時に学生が「平和の歌」を歌い、戦争責任を問う質問状を渡そうとして警官隊と小競り合いになった「京大天皇事件」が起きた。小畑さんは「天皇事件を受けて同学会が解散させられ、事務所が封鎖されたことが原爆展の資料が散逸した一因だと思う」とする。

 「掘り起こしの会」は高齢化を理由に活動を休止している。小畑さんは「あの頃の友達は死んだか、体が弱ってやりとりが途絶えた。体験記の発見を機に原爆展のことを少しでも知ってほしいが、語れる者はほとんどいなくなった」と話した。