原文は佐竹昭広校注『新日本古典文学大系39』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。
 

 また、麓には粗末な柴の小屋が一つある。この山の番人が住んでいる所である。そこには子どもがいる。時々やって来て、方丈の庵の私を訪ねる。もし用事もなく所在ない時は、この子と一緒に散策する。あちらは10歳、こちらは六十に手の届く年ごろで、齢はびっくりするほど離れているが、心を慰める楽しみごとは同じである。

 ある時はちがやの花穂を抜き、岩梨の実を取り、山芋の芽をもぎ集め、芹を摘(つ)む。ある時は山のふもとの田んぼに行って落ち穂を拾い、それを結って田の神に供える飾りを作る。よく晴れてうららかな日和のときは、峰によじ登って、遙(はる)かにわがふるさと都の空を仰ぎ、目を転じて、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師などの歌枕を眺める。

 白居易が「勝地に定主なし」と言った通り、この美しい名所の景観は誰のものでもないので、私がこんな風に鑑賞して、心を慰めることには何の差し障りもない。道の歩みも調子よく、心が遠くへ行きたいと思う時は、この庵から峰続きに炭山を越え、笠取山を過ぎて、ある時は岩間寺に詣で、ある時は石山寺に参拝する。またある時は、粟津の原を分けて、蝉丸(せみまる)の翁の旧跡を訪れ、田上川を渡って、猿丸大夫の墓を訪ねる。

日文研所蔵『都林泉名所図会』河合納涼(糺の納涼)

 上記画像は日文研データベースHPで閲覧できます。http://db.nichibun.ac.jp/ja/

 

独りの気楽、京を縦横闊達​

 いにしえの京都を語らせたら、鴨長明(1155?~1216年)が抜群だ。平安京から東北に位置する下鴨神社の神官の子として生まれ、保元の乱(1156年)に始まる源平争乱の時代を生き抜いた中世人である。二十代から三十代にかけて、大火、辻風、都遷(うつ)り、饑饉、大地震という、京都を襲った五つの災厄も体験した。

 治承4(1180)年の都遷りの折には、神戸の福原まで駆けつけてその目で確かめ、都の優劣を比較している。大地震は、元暦2(1185)年7月のこと。長明は、その後「三十余ニシテ」先祖伝来の家を出て独立し、下鴨神社とも距離を置くこととなった。孤独な長明を取り立てたのは、後鳥羽院である。和歌の才能を高く評価し、建仁元(1201)年には和歌所の寄人(よりうど)に抜擢(ばってき)する。さらに院は、河合神社の禰宜(ねぎ)にも推薦したが、強い反対に遭って実現しなかった。長明は「折々ノ違(たが)ヒ目、自ヅカラ短キ運ヲサトリヌ」と書くような絶望を経て、50歳の春に出家。5年ほど洛北大原に隠棲(いんせい)した後、60の定命を前に、一転南へ移り、旧宇治郡の「日野山ノ奥ニアトヲ隠シテ」方丈の庵を構える。

 日野の地は、奈良街道の交通の要衝で、法界寺や親鸞の誕生院もある。長明は、建暦2(1212)年に「名ヲ音羽山トイフ」山系の一端にある「外山」の地で、引用のごとくに生涯を振り返り、「桑門ノ蓮胤(れんいん)」と署名して『方丈記』を書き上げた。『吾妻鏡』によれば、その前年に鎌倉へ行き、将軍源実朝とも面謁(めんえつ)している。いま日野の山の奥に足を運べば、長明の住居跡と伝える巨岩が鎮座し、「長明方丈石」という碑が立てられている。江戸時代以前より、長明の庵跡だと信じられてきた場所だ。当たらずとも遠からずといったところか。

 『方丈記』には、精細な庵の描写がある。阿弥陀仏や普賢菩薩(ふげんぼさつ)の絵像が掛けられ、『法華経』や『往生要集』の抜き書きもある。いかにも修行者の住まいだが、一方で、和歌や管絃(=音楽)の本、さらには琵琶や琴も持ち込んでいる。夜更けには、詩歌を楽しみ、独り楽器を奏でて唄(うた)う。庵から眺める風景の叙述も満足げで、極小の暮らしには、あり余る自足があった。

 時折、山守の子どもがやってくる。ややこしい大人でないところがお気に入りだ。長明に童心の複眼を蘇(よみがえ)らせ、凝り固まった寂しさを癒やしてくれる。天気のいい日は遠出をするが、目指す先には、歌人ゆかりの名所や歌枕が並ぶ。気が向けば、近江の国へと越え行き、岩間寺や石山寺など、観音の霊場にも足を伸ばす。長明の心身は、すこぶる健やかで自在であった。歩みの途次には、まるで国見でもするかのように、人生の大半を過ごした都を仰ぎ、「故郷の空」と呼んでいる。

 『方丈記』には「フルサト」が三例ある。最初は都遷りの時。帝以下、大臣や公卿の貴族達が「ミナ悉ク」京都を捨て、福原へと「ウツロヒ給ヒヌ」。「世ニ仕フルホドノ人、誰(たれ)カ一人フルサトニ残リ居ラム」と嘆くところだ。「古京ハスデニ荒テ、新都ハイマダ成ラズ」と記す「古京」のことである。二例目がここ。いずれも「ミヤコ」を指している。ところが「仮ノ菴モヤヤフルサトトナリテ、簷(のき)ニ朽葉(くちば)フカク、土居(つちゐ)ニ苔(こけ)ムセリ。自ヅカラ事ノタヨリニ都ヲ聞ケバ…」とある最後の用法だけは違う。すでに5年も暮らしたこの方丈の庵のことをいっている。彼はもはや、都の人ではなくなってしまった。「今、サビシキ住マヒ、一間(ひとま)ノ菴、ミヅカラコレヲ愛ス」。この庵が最上の空間だ。「自ヅカラ都ニ出デテ」も、自分の身のみすぼらしさを「恥ヅ」ばかり。ここに帰ってきて、ようやく自分を取り戻し、都の人のあくせくとした暮らしを「アハレム」ことができる。

 京都を守護する大神社の御曹司だった男は、いろいろあって俗世を厭(いと)い、平安京の郊外を南北するうち、ついに「一間」の山暮らしを「故郷」と感じる。その代わり、東国の鎌倉将軍の知己まで得た彼の視点は、縦横に闊達(かったつ)である。隠者蓮胤の『方丈記』が、京都を描く古典文学として随一であるとはそのことだ。

 

方丈石(京都市伏見区)

鴨長明の庵跡とされる方丈石(京都市伏見区)
方丈石地図

 地下鉄石田駅から、府道を古刹(こさつ)法界寺に向かって歩く。「右ひのやくし」と刻まれた石の道標の傍らに、白い木の標識が立つ。約1キロ先の山中にある長明の庵跡とされる方丈石への道案内だ。

 うっそうとした山道を歩む。土道が少し険しさ増したその先に、方丈石は立ち現れた。見上げるほどの岩の塊。その裾に細い谷川が巡る。岩の上に一丈四方の庵が建つほどの平らな地面が広がり、「長明方丈石」の石碑が立っている。供えられた花の赤さを、揺れる木漏れ日が鮮やかに浮き立たす。聞こえるのはただ虫の声。世の無常と自らの不遇を経て、長明は、ここで気随、安寧の日々を見いだした。

 帰り道、法界寺、親鸞ゆかりの日野誕生院へと足を延ばす。桃山の丘陵を望み、稲穂や秋の花々が風にそよぐ里山は、のどかさと仏の世界の静謐(せいひつ)に包まれている。幻? 長明を捉えた日野の原風景…。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)