原文は渡辺実校注『新日本古典文学大系25』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。
 

 見物に値するすばらしい行事は、臨時の祭、帝の行幸、(賀茂祭の翌日の)斎王の還御、そして(賀茂祭前日の)摂政関白の賀茂詣(もうで)だ。

 賀茂社の臨時の祭は、空が曇り、寒そうであるところに、雪がちらちらと降って、冠に付けた插頭(かざし)の造花や、(舞人が着る)青摺(あおずり)の袍(ほう)の装束などにかかっているのは、たとえようもないほど素敵(すてき)。(舞人が帯びた)太刀の鞘(さや)がくっきり黒く、(鞘を包む)毛皮の袋の尻鞘には、まだらの模様があって、幅広やかに見えているところに、(袍の下に着た)半臂の腰の小紐(ひも)から垂らす飾りの緒が、みがいたようにつやつやとしてかかっている様子や、(舞人が着ける)地摺の袴の中から、氷かとびっくりするほどつややかな砧の打ち目の絹の光沢が見えたりしているのは、なにもかもがとても見事である。

 もう少し大勢の人たちを行列として渡らせたいものだが、勅使はかならずしも高貴な身分の人ではなく、受領などであるのは、見るかいもなくにくたらしい感じさえするものの、挿頭に挿した藤の花に隠れて顔が見えない様子は、趣がある。通り過ぎてしまった行列のゆくえを名残惜しく見送っていると、陪従で品のない連中が、柳襲(やなぎがさね)の下襲という装束に身をつつみ、山吹の花の插頭を付けているのは、分不相応で釣り合わぬように見えるが、泥障(あおり)という泥よけの馬具を音高く鳴らして『古今和歌集』恋の歌「ちはやぶる神の社の木綿だすき一日(ひとひ)も君をかけぬ日はなし」(「神の社」を「賀茂の社」とする異文が『古今集』『枕草子』ともにある)の一節を歌っていたのは、とても風情のあることよ。

「加茂臨時祭図巻」(京都産業大学図書館所蔵) 文政7(1824)年制作。江戸時代後期に復活した祭礼を描いた。「臨時」の名称だが、恒例行事で、いわゆる冬祭に当たる

上記画像は京都産業大学図書館「貴重書電子展示室」で閲覧できます。
http://www.kyoto-su.ac.jp/library/kichosyo/index.html 

 

平安朝の四季彩る四大祭の美

 「臨時の祭」は、賀茂社と石清水八幡宮とで行われた盛儀である。石清水の臨時祭は、旧暦3月の春の祭。賀茂の臨時祭は、11月後半(下(しも)の酉(とり)の日)で冬の祭であった。その間に、夏4月中頃(中(なか)の酉の日)の賀茂祭(葵祭)と、8月15日中秋の石清水放生会がある。朝廷の大祭として、平安朝の四季を彩った。

 章段本文には、賀茂臨時祭の見物記を描く。この祭の起源は、宇多天皇が即位以前にまだ臣下として仕えていた時代のこと。賀茂の明神から祭の開催を求める託宣があり、即位後に実現した。宇多天皇自身が日記に記し、『大鏡』にも描かれた逸話である。帝位と密接に関わる勅祭であった。清少納言の時代には、四位の勅使一人、帯剣の五位(もしくは六位)の舞人10人、歌に堪能な陪従(べいじゅう)が12人供奉するのが標準だ。彼らは騎馬。その回りを徒歩の従者たちが付き添い、内裏から一条大路を東に進む。路頭の儀で、見物のしどころである。行列は、鴨川を渡って下鴨神社、そして上賀茂神社へと向かう。殿上人が多いので、清少納言にはおなじみの顔ぶれが連なる。だから評点は辛い。シビアな記述も織り込まれる。

 「見物(みもの)」は「行幸。祭の還さ。御賀茂詣」と続く。この先の本文には「行幸にならぶものはなにかあらん」とあって、明け暮れいつもお側に仕えている帝が、神々しく御輿(みこし)に乗って現前する威容への感激が描かれる。帝には、賀茂社行幸という、大事な行事もあった。祭のかえさは、賀茂祭の翌日、斎王が紫野の斎院に還御することだが、これについても、章段の後半に詳細な叙述がある。歴史的な記録としても重要だ。ぜひ『枕草子』を手にとって読み進めてほしい。賀茂祭前日(中の申(さる)の日)には、摂政関白の賀茂詣があった。

 ところが臨時祭に斎王は出御しない。帝は一行を内裏で見送る。摂関もまた、賀茂臨時祭には登場しない。四つを合わせて、賀茂社をめぐる見物の美がようやく成就するのだ。清少納言ならではの巧みだが、彼女はじっさい、臨時祭が大好きだった。「なほめでたきこと」(一三五段)でも「臨時の祭」を挙げ、清少納言は宮中の「清涼殿のおまへ」の儀式を記憶をたどって再現する。叙述は春の石清水臨時祭の様子だが、「賀茂の臨時の祭は、還立(かへりだち)の御神楽(みかぐら)などにこそ、なぐさめらるれ」と冬祭の情景も忘れていない。冬至前後の季節柄、京都はとても寒いのだが、「さむく冴(さ)えこほりて、うちたる衣(きぬ)もつめたう、扇持ちたる手も、ひゆともおぼえず」。この素晴らしさには全てが吹き飛ぶ。清冽(せいれつ)な冷気の中の華麗である。

 だが臨時祭は、もう観(み)ることができない。古式は応仁の乱で中絶。数百年経(た)って、文化11(1814)年に光格天皇が復興したが、明治維新の東京奠都(てんと)で、帝は東京に遷幸(せんこう)。賀茂社とは地を隔て、祭は完全に廃絶する。葵祭や石清水放生会のように、復活も果たされなかった。上の図は、復原(ふくげん)された江戸期の姿を伝える、貴重な彩色絵巻である。

 清少納言は、宮中を離れた里居の時、「ただわたるを見るがあかねば、御社(やしろ)までいきてみるをりもあり」。行列見物では満足せず、牛車を走らせ、上賀茂神社までついて行く。大木のもとに車を止めて、社頭をのぞめば、たいまつの煙がたなびき、火影に、舞人の「半臂の緒、衣(きぬ)のつやも、ひるよりはこよなうまさりてぞ見ゆる」。そして「声あはせて、舞ふ」姿を楽しむ。境内の夜の光景は、また格別。まさしく「なほめでたきもの」であった。

 

上賀茂神社(京都市北区)​

御手洗川をまたぐように建つ舞殿.左は土屋(京都市北区・上賀茂神社)
上賀茂神社地図

 下鴨神社は、賀茂御祖(みおや)神社といい、御祖は、上賀茂神社の祭神賀茂別雷(わけいかづち)大神の母玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祭ることにちなむ。御蔭通から続く参道は、古木生い茂る糺(ただす)の森を南北に貫き、歩くほどにすがすがしい。南口鳥居の先に楼門が見える辺り。臨時の祭り行列で、舞人(まいびと)や陪従(べいじゅう)の装束を際立たせた雪のように、紅葉が風に舞い散り、降りしきる。その足で、賀茂別雷大神の上賀茂神社へ。二の鳥居をくぐると目に入るのが一対の円錐形をした立砂(たてずな)。ご神体の神山(こうやま)をかたどった依代(よりしろ)と言う。その先に御手洗(みたらし)川が流れている。このせせらぎをまたぐように建つのが舞殿(まいどの)(橋殿)。葵祭の社頭の儀で舞楽「東游(あずまあそび)」が奉納される。

 清少納言がめでた夕べの炎に揺らめく典雅な舞も、ここで舞われただろうか。せせらぎの音は楽の音となり、その情景が夢のように見えてくる。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)