原文は久保田淳校注『新日本古典文学大系39』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。
 

 さて、冬枯れの風景だが、なかなかどうして、秋には負けていない。水際の草に散り落ちた紅葉が留(とど)まって、真白く霜が降りた寒い朝、遣(や)り水から煙のように霧が立ち上るのは趣深い。年の暮れも押し詰まり、誰も彼も年越し仕度(じたく)に勤(いそ)しみ合っている時分は、たぐいなき風情がある。「すさまじきもの。師走の月夜」と言い、時節はずれで興ざめだとして、眺める人もいない十二月の月が、寒そうに澄んで輝く二十日過ぎの空にこそ、もの寂しい美が宿る。内裏の仏名会(ぶつみようえ)、荷前(のさき)の使(つかい)派遣の儀式など、胸にしみいる神々しさ。宮中の儀礼が絶え間なく続き、新春の準備と重なってせわしなく行われる様子は、たいそうなものだ。歳末の鬼やらいから、帝が神祇に祈る元旦の四方拝へと続くのも、面白い。大晦日(おおみそか)の晩は月もなく真っ暗闇の中で、人々がたいまつを灯(とも)し、夜半過ぎまで、家々の門をたたいて走り回って、何事か、仰々しく声高に物を言い、足が地に着かないほどの慌てぶりだが、日付が変わる夜更け頃より、さすがに物音もしなくなってひっそりとしてしまうのは、旧年の名残(なご)りもしのばれ、もの淋(さび)しい。

「長谷雄草紙」(国際日本文化研究センター蔵) 紀長谷雄(きのはせお)が大内裏正門の朱雀門で鬼と双六を打つ。勝った長谷雄は、不思議な美女を手に入れるのだが…。本絵巻は江戸時代の模本。原本(永青文庫蔵)は14世紀前半頃成立か

 「長谷雄草紙」は日文研データベースHPで閲覧できます。http://db.nichibun.ac.jp/ja/

 

「すさまじき」師走の月に美しさ​

 中世京都の暮れの情景である。『徒然草』一九段は「をりふしの移り変(かは)るこそ、物ごとにあはれなれ」と起筆し、四季ごとの時節推移を描き出す。「物のあはれは秋こそまされ」と誰でも言うが「今ひときは心も浮きたつ物は、春のけしき」だろうと続く。確かに春と秋は別格で『古今集』も上下二巻ずつを配置する。どちらがいいか。春秋優劣論の伝統も古い。

 しかしここでは、中世らしい美意識で、冬の叙景を精細に彩る。『徒然草』三一段「雪の面白う降りたりし朝(あした)」の逸話を見ても、兼好は冬の都の魅力をよく知っていた。だから常識に抗(あらが)って、年の瀬の月も称讃する。「すさまじき物」とは、時季外れの興ざめや当てが外れた失望をめぐるものだが、『枕草子』の名高い章段でもある。昼吠(ほ)える犬、牛が死んだ牛飼いなどを皮切りに、清少納言らしい皮肉な言い立てがたっぷりと展開する。最後には、「腹立たし」いほど嫌いだという「師走のつごもりの夜、寝起きて浴(あ)ぶる湯」と、「師走のつごもりの長雨(ながあめ)」を挙げる。『徒然草』と同じ時間を捉えるが、冬の月夜には触れない。

 ところが『源氏物語』総角(あげまき)巻にも「世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜」とある。「雪のかきくらし降る日」のことだ。これより前の朝顔巻に、雪降り積もる夕暮れ、光源氏は紫の上と庭を眺め、世の人が愛する春秋の「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に雪の光(ひかり)あひたる空こそ」素晴らしいと賞(ほ)める。そして「すさまじきためしに言ひおきけむ人の心浅さよ」と呟(つぶや)いて「御簾(みす)巻き上げさせ給ふ」。中世の『源氏物語』注釈書は、清少納言『枕草子』に「すさまじきもの。師走の月夜…」という本文があったと引用する。だとしたら、紫式部の当てこすりは相当なものである。光源氏が簾(すだれ)を巻き上げるしぐさは、明らかに『枕草子』のパロディなのだ。「雪のいと高う降りたる」日、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならん」という中宮定子の仰せに、清少納言は白居易の詩を気取り、「御格子(みかうし)あげさせて、御簾をたかくあげたれば、笑はせ給ふ」という、あの場面である。

 『徒然草』は冬の叙述の直前に「言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにことふりにたれど」と両作品の愛読と影響を謙遜気味に誌(しる)している。兼好はきっと、朝顔巻の因縁を知っていた。だからこそ、彼独自の視点が光る。『源氏』には「月は、隈(くま)なくさし出でて、一つ色に見え渡されたる」とある。満月に照らされた雪景色だが、『徒然草』は、二十日過ぎの空を仰ぎ、夜更けに輝く、欠けた月に愛着する。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(一三七段)。「心細さ」の美こそ、この名文の本質である。

 主な舞台は、帝の住まう内裏である。かつては大内裏の中にあったが、中世には、貴族の邸宅などを改造した里内裏が使われる。大内裏は荒れ果て、朱雀門も、兼好誕生以前の13世紀初めに壊滅した。しかし洛中を転々とした里内裏も、兼好が『徒然草』を書く前後、14世紀前半以降には、現在の京都御所と同じ場所の土御門内裏に落ち着く。ただし世は南北朝の争乱へと突入する。彼は、どのような立場で、こんな風に静謐(せいひつ)な宮中を眺めることができたのだろう。実は最近、兼好の出自をめぐって、根本的な見直しが迫られている。もはや彼を「吉田兼好」と呼ぶことはできない。その重大な転換の詳細は、議論の主役である小川剛生の『兼好法師-徒然草に記されなかった真実』(中公新書)を参照されたい。

 そして新春正月が来る。「かくて明け行(ゆ)く空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、引き替へめづらしき心ちぞする」。都大路には門松が立ち並び、「花やかにうれしげなるこそ、又あはれなれ」と本段は閉じる。「年のなごりも心ぼそけれ」と対比されて趣深い。

 

京都御所(京都市中京区)​

「二條富小路内裏址」の石碑。御所南小第二グラウンドに隣接している(京都市中京区) 京都御苑
京都御苑地図

 徒然草の成立は、鎌倉幕府滅亡が目前で、60年近い南北朝対立へと向かう動乱の時期とされる。壮麗だった平安宮は、当時既に見る影もなく、天皇の居所である内裏も、里内裏という有力貴族の邸などを使う形に代わっていた。

 徒然草は、この騒擾(そうじょう)の時代でも、宮中儀式が古式ゆかしく行われる様や、また、月が冬枯れの庭や建物にかかる風情のすばらしさを描く。兼好は、こんな平安の雅を、二条富小路内裏(中京区)や土御門東洞院殿(上京区)という里内裏で見たのだろうか。土御門東洞院殿は、南北朝統一(1392年)後、正式な皇居となり、拡充、再建を重ね東京遷都(1869年)まで御所であり続けた。

 そんな京都御所は、昨年から通年で一般公開が行われている。築地塀の向こうには玉砂利に映える紫宸殿や清涼殿…経巡れば、今なお宮中の典雅が香り立つ。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)