原文は川端善明・荒木浩校注『新日本古典文学大系41』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。
 

 藤壺の中宮威子(いし)が皇后にお定まりになった日、公卿たちが穏座(おんざ)に席を移した後、大殿道長が盃(はい)を手にお出ましになったので、摂政頼通は上座を譲り、右大臣公季(きんすえ)に対座なさった。道長は戯れて、右大将実資(さねすけ)に「我(わ)が子に盃をおすすめくだされ」とおっしゃった。実資は盃をとって頼通に勧める。頼通は盃をとり、左大臣顕光(あきみつ)に渡す。顕光は、道長に献杯する。道長は、実資に盃を渡した。また道長が実資に「和歌を詠もうと思うので、必ず返歌をなさるように」とおっしゃる。実資は「もちろんです」と申された。道長は「得意げな自慢の歌なのでね。ただし即興だ、事前に作って用意していたわけではない」とおっしゃって、

 この世こそが我が世だと思う。この満月のように、欠けていることもないと思うので。

 大将が「このお歌は素晴らしいので返歌できません。ただこの歌を一座みなで詠唱すべきです。元稹(げんしん)の菊の詩に、白居易は詩を返さず、深く嘆賞して、終日詠吟したそうです。あの故事を思ってください」と申されると、人々は、実資のもとめに応じて繰り返し詠じなさったので、道長も和やかに寛いで、返歌をせよとのとがめはなかったという。

重要文化財「駒競(こまくらべ)行幸絵巻」(和泉市久保惣記念美術館蔵)  万寿元(1024)年9月、藤原頼通の大邸宅高陽院(かやのいん)に、後一条天皇、太皇太后彰子、東宮を招いて競馬(くらべうま)を行った時の盛儀を描く。寝殿母屋には天皇と東宮、南面の簀子縁には、頼通や実資をはじめとする上達部が座す。

 「駒競(こまくらべ)行幸絵巻」は和泉市久保惣記念美術館HPで閲覧できます。 http://www.ikm-art.jp/

 

この世こそ我が世 破格の道長​

 『荒城の月』は「春高楼の花の宴 巡る盃(さかずき)」と始まる。向田邦子は、酔いつぶれて眠る父の盃を連想して「眠る盃」と間違えて覚えてしまったという。本話の宴(うたげ)は、千年前の初冬、月の夜。道長の酔余の戯れから巡盃し、詠歌へと続く。右大将だった藤原(小野宮(おののみや))実資(さねすけ)が、漢文日記『小右記(しようゆうき)』の寛仁2(1018)年10月16日条に誌(しる)した記事が出典だ。

 2年前の長和5年正月、道長と折り合いの悪かった三条天皇が譲位し、後一条天皇が即位した。三条天皇の中宮は、道長の娘妍子(けんし)である。三条は譲位の翌年5月に崩御した。後一条天皇の母も道長の娘で一条天皇の中宮彰子である。紫式部が仕えた人だ。この寛仁2年正月に太皇太后となっている。そして本日、妍子は皇太后に、道長娘の威子(いし)が後一条の皇后(藤壺の中宮)となった。「一家立三后、未曾有(みぞう)」と『小右記』は書く。天皇は数えで11歳。中宮の9歳年下だった。

 宮中での立后(りっこう)の儀式を終え、公卿一行は、里に下がっていた新中宮の許に参る。道長の土御門殿である。2年前に焼亡したが、この6月、立派に新造されて引っ越したばかり。東の対での饗宴(きょうえん)(宴座(えんのざ))の後、中宮のおわす寝殿の南面、欄干のある簀子縁(すのこえん)に座を設けて移動し、寛いだ二次会(穏座(おんのざ))が始まった。庭を眺めて音楽も楽しむ。道長は数えで53歳。前年3月、長男の頼通に摂政と氏長者を譲り、すでに引退している。

 必ず返歌をと迫る道長に、9歳年長のまたいとこ実資は、「元白」と双称される中唐詩人の故事を示して責めを逃れた。この巧みな機転が、本話の大事な要素である。白居易が元稹(げんしん)を憶(おも)って詠んだ詩に「尽日吟君詠菊詩(一日中君が詠んだ菊の詩を吟じた)」という一節がある(『白氏文集』一四)。元稹の菊詩は有名で、道長と同い年の藤原公任が撰集した『和漢朗詠集』秋・菊に「是(こ)れ花の中に偏(ひとへ)に菊を愛するにはあらず 此(こ)の花開(ひら)けて後更(のちさら)に花無ければなり」(原漢文)と三・四句を抜粋する。元稹はこの詩句に執心し、霊として出現したという伝説もある。12世紀中頃成立の歌学書『袋草紙(ふくろぞうし)』は、「秀歌」には劣った「返事」をしないのが故実で「恥辱」ではないと述べ、先例として『小右記』を抄出した。

 『小右記』原文は「誇たる歌になむ有る」と道長の言葉を書き留め、和歌の上句を「此世乎(このよを)は我世(わがよ)とそ思(おもふ)」と聞き取り写した。この歌は「思ふ」「思へば」と繰り返すなど、拙さも目立つ。だからこそ余計に、尊大で、いかにも「この世」は「我(わ)が世」だと放言しそうな道長像を投影する。ところが『御堂関白記』には「余読和歌。人々唱之」とあるのみ。肝心の歌句を誌さない。道長自身の表現意図は藪(やぶ)の中だ。

 素直に聴けば、初句は「この夜をば」と解するのが自然だろう。娘3人が后となった「この夜」こそ、我が生涯最高の夜だ。それを言祝(ことほ)ぐかのように、くまなき望月も空に照る。満座の唱和にもこの趣旨がふさわしい。「夜」に「世」が掛詞(かけことば)となって、ようやく「この世」と「我が世」の意が響く。ただし「我が世」という歌言葉は、ふつう、我が生涯という意味で使われる。自分が所有し支配するこの世界という、通説の理解は破格である。

 だが『小右記』は、1年ほど前、道長の自邸宴席での偉(えら)ぶりが「帝王」気取りだと批判していた(寛仁元年11月10日)。数カ月前には、権力を振りかざして土御門殿の再建に熱中する道長のやり方を苦々しく思い、道長の「徳」は「帝王」のようだ。世の興亡も思うがままだと揶揄(やゆ)する(同2年6月20日)。実資の<眠る盃>、「世」の聞きなしは、確信犯であった。

 『続古事談』は、建保7(1219)年成立の説話集(編者未詳)である。『袋草紙』をもとに『小右記』を参照して本話をまとめ、巻二「臣節(臣下として守るべき節度)」ではなく、巻一「王道后宮」に収めた。配置の妙というべきか。

 

土御門殿(京都市上京区)​

京都御苑の森に立つ「土御門第址」の駒札(京都市上京区)
土御門殿地図

 河原町通から荒神口通を西へ進むと、鴨沂高グラウンド南側に「従是(これより)東北 法成寺址」の石碑が立つ。法成寺は、権勢を極めた道長が「極楽浄土をこの世に」と創建した大伽藍(がらん)。道長が臨終の際、ここで阿弥陀仏の手に結んだ糸を握って横たわり、浄土への導きを願った逸話はよく知られている。ただ、この壮麗な法成寺も、鎌倉時代には荒廃し、「徒然草」で栄華のはかなさを示す場所として描かれる。

 道長が絶頂の歌を詠む宴の開かれた土御門殿があったのは、この石碑の西に広がる京都御苑の中。寺町通に面した清和院御門を入ると、大宮御所と京都迎賓館の間、木々の立ち並ぶ道際に1本の駒札が見える。その札に壮大な土御門殿の規模や由来が記されている。御苑の森で、これ以外に道長の邸宅をしのぶものは何も見当たらず、木立を鳴らす風が吹き抜け、野鳥のさえずりが響くばかり。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)