原文は堀内秀晃校注『新日本古典文学大系17』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。

 石作(いしつくり)の皇子(みこ)は、目端が利く計算高い人で、「インドにたった一つしかない鉢を、百千万里の遠路を旅して行っても、どうして手に入れることができようか」と考え、かぐや姫のもとには、「今日からインドへ石の鉢を取りにまいります」と知らせして、三年ほど、大和の十市郡にある山寺に潜み、賓頭盧尊者の像の前にある鉢で、真っ黒に煤墨がついているのを盗み取って、錦の立派な袋に入れ、造花の枝に付けて贈呈の形式を整え、かぐや姫の家に持ってきて、見せたところ、かぐや姫は不審な面持ちて見ていたが、鉢の中に手紙が入っていた。ひろげてみると(和歌があった)、

 海や山の道に精根尽くし(筑紫と掛詞か)果たして泣いた石(泣いしと石の掛詞)の鉢の「ち」ではないが、血の涙が流れたものですよ。かぐや姫は、光があるかと見たが、蛍ほどのはかない光さえなかった。

 置いた露に宿る光ほどのほんのかすかな光ぐらいは宿してほしいものです。小倉山(小暗山)で何をお探しになったことやら。という歌を添えて、返却した。皇子は、鉢を門前にすてて、この歌に返歌をした。

 加賀の白山のように輝くあなたに会うと、光がなくなってしまうのかと思います。はち(鉢と恥をかける)を捨ててもおすがり申すことよ。と詠んでかぐや姫に届けた。かぐや姫はもはや返歌もしなかった。耳を傾けようとさえしなかったので、皇子はぶつぶつ愚痴って帰ってしまった。

『竹取物語(絵巻)』(国立国会図書館蔵)石作皇子が「仏の御石の鉢」を翁に届けた場面。この絵巻は近世のものだが、物語は古来、絵を見ながら楽しむ文芸だった

 皇子の嘘を見破ったかぐや姫​

 竹取の翁(おきな)が「我子(わがこ)の仏(ほとけ)、変化(へんげ)の人」と呼ぶかぐや姫は、輝く絶世の美女。石作皇子が「白山」にたとえるように、家中が光で満ちあふれ、暗いところがなかったという。「世界のをのこ」が求婚に殺到したが、返事もない。完全拒絶に脱落者が相次ぐ中、石作皇子、くらもちの皇子、右大臣阿倍のみむらじ、大納言大伴御行(おおとものみゆき)、中納言石上麻呂足(いそのかみのまろたり)の五人が残った。評判の色好みだ。翁にも諭され、かぐや姫は仕方なく「ゆかしき物」として「仏の御石の鉢」、「蓬莱(ほうらい)の玉の枝(え)」、「火鼠の皮衣(かはごろも)」、「竜(たつ)の首の玉」、「燕(つばくらめ)の子安貝(こやすがい)」をそれぞれ指定。愛情の深さを測りたい。持って来てと難題を出した。

 石作皇子は「この女見では、世にあるまじき心地(ち)」して「天竺にある物も、持(も)て来ぬ物かは」と思案をめぐらす。だがこの時代、インドを目指して無事帰国した日本人は、一人もいない。詐術あるのみ。石の上にも三年、奈良の山寺に籠(こ)もって天竺渡航のふりをする。揚げ句の果てに、仏の弟子賓頭盧長者像の真っ黒に煤(すす)けた鉢を盗んで偽装した。本物の仏の遺物なら光を放つ。色は青紺。「雑色」で「黒多」との説もあるが、この偽物には光のかけらもない。かぐや姫は嘘(うそ)を見抜き、「小暗山」にいらっしゃったのねとからかう。

 通説では、この小倉山は奈良だという。『万葉集』に「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝(い)ねにけらしも」という舒明天皇の和歌がある。江戸時代の地誌には、十市郡の倉橋に小倉山という峰があり、山寺もあったと記す。物語の設定も傍証となる。求婚者の右大臣以下3人は、実在の公卿名を借りている。『日本書紀』持統天皇10(696)年10月条にはモデルの3人とも登場し、丹比真人(たぢひのまひと)と藤原不比等も名を連ねる。丹比真人を石作皇子に、くらもち皇子を藤原不比等に当てれば『竹取物語』の5人が成り立つ。

 だが京都には、大堰川(桂川)北岸に、嵐山に相対する小倉山がある。藤原定家が『百人一首』を選んだという小倉山荘もこのふもと。「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」という貞信公藤原忠平の一首の通り、紅葉の名所である。平安時代以降、こちらがはるかに有名となり、奈良と京都の小倉山が混同され、判然としない和歌も多い。

 『竹取物語』の読者はどう解したか。物語の後半には「頭中将」が登場し、事情はさらに複雑だ。蔵人頭で近衛中将を兼ねる者を頭中将という。蔵人は令外官。かつて薬子の変と称された事態の中、嵯峨天皇が平城上皇側への対応策として、大同5(810)年に任命して始まった。純然たる平安時代の官職である。

 その年は、平安京にとっても象徴的な劃期(かっき)となった。たとえば『方丈記』は、治承4(1180)年6月、平清盛が福原に「ニハカニ都遷(ミヤコウツ)リ」したことを承け、「此ノ京ノハジメヲ聞(キ)ケル事ハ、嵯峨ノ天皇ノ御時都(ミヤコ)ト定(サダ)マリニケルヨリノチ、スデニ四百余歳ヲ経(ヘ)タリ」と書く。平安遷都は、治承4年から386年前、嵯峨天皇の父桓武天皇の偉業である。だが長明は、計算の起点を大同5年の薬子の変の平定に置いた(佐竹昭広校注『新日本古典文学大系』)。兄の平城天皇が平城京に遷都を企て「二所朝廷」となる内乱を治めた嵯峨天皇の時代に、京都は真の意味で「万代の宮」となる(橋本義彦『平安貴族』)。長明が『方丈記』を書き上げた建暦2(1212)年まで、差し引き402年である。

 『伊勢物語』第一段は「平城(なら)の京、春日の里」を「ふるさと」という。「ならの京は離れ、この京は人の家まださだまらざりける時」(同第二段)という時代設定だ。両京のダブルイメージも「物語の出来始(いできはじめ)の祖(おや)なる竹取の翁」(『源氏物語』絵合)に相応(ふさわ)しい。

 物語の先祖『竹取物語』には、様々な原型が潜在する。語源説の頻用もその一つ。この求婚譚も「かの鉢を捨てて又言ひけるよりぞ、面(おも)なき事をば、『はぢを捨つ』とは言ひける」と閉じる。だじゃれのような恥知らずの語源解説だ。

 

小倉山(京都市右京区)​

小倉山展望所からの眺望。眼下に竹林、桂川にかかる渡月橋、京の町並み
小倉山地図

 亀山公園の展望台が、小倉山への登山口。標高296メートルの山頂までの山道は、嵐山から見る穏やかな姿とは違い結構険しく、ぬれていると滑りやすい。所どころに方向を見失う分かれ道もあり、注意しながら山頂へと向かう。ただ、たどりついた山頂は、木々に囲まれていて見晴らしは悪く、北に愛宕山がわずかに望めるだけ。すばらしい眺望が開ける展望所は、その山頂から少し降りたところにある。

 東南に開けた展望所からの眺めは、まさに絶景。眼下に広大な竹林が茂り、その先には、大きく蛇行し流れる桂川と渡月橋。そして、京の町並みが東山まで広がる。

 この絶景を目に焼き付け、小倉山を降り「竹林の小径」へ。うっそうとしたその中を歩みつつ、月が大堰川を渡り竹林を照らす様を思えば、観光客のざわめきの向こうに、かぐや姫の幻想の世界が鮮やかに浮かび上がってくる。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)