せばた・はじめ 1976年生まれ。日本近現代史、公文書管理制度研究。2020年度から現職。著書に「公文書管理と民主主義」(岩波ブックレット)、共著に「〈地域〉から見える天皇制」(吉田書店)。

 私は、昭和天皇の各地への行幸の研究をしており、京都府の公文書館でもあった総合資料館を以前から利用していた。今はリニューアルされて京都府立京都学・歴彩館となり、地下鉄烏丸線北山駅の近くにある。所蔵している1946年以前の京都府行政文書は、国の重要文化財に指定されている。

 京都は、近代の天皇にとっても重要な場所であった。明治天皇は、故郷である京都を愛し、葬られることを望んだ。昭和天皇までの即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)は、京都で執り行われた。

 行幸においても京都は重要な位置を占めた。1947年の東北巡幸以前は、天皇は旅館やホテルに宿泊せず、軍艦や公会堂など公共施設か、個人の別宅に、寝具を持ち込んで宿泊していた。

 ただし、京都では大宮御所や二条離宮(二条城)などの、宮内省管理の施設が宿泊地にあてられた。他にも、京都で1泊してから他の地に向かうケースも多かった。そのため、京都への行幸件数は、葉山御用邸のある神奈川県などと並んで非常に多い。歴彩館には、行幸に関する公文書が数多く残されている。

 系統立てて残っている文書の一つに、1940年の紀元2600年の行幸が挙げられる。この時は4泊5日で天皇が京都を訪れ、明治天皇陵や橿原神宮などに参拝した。行幸事務に手慣れているとはいえ、これだけの日数の滞在は大変である。

 例えば、天皇が京都駅を利用する8回全てにおいて、ホームで大々的に出迎える必要があった。奉迎者を各市町村から推薦させており、膨大な数の申請書が3冊の分厚い簿冊として残されている。また、同駅から京都御所へのルートに、延べ数十万人にも及ぶ奉迎者の動員も計画された。この行幸で残された公文書の簿冊は、40冊にものぼる。帝国憲法下での行幸の公文書は、全体的に残存状況がよい。

 ところが、1947年の新憲法施行直後の行幸では、わずか3冊しか歴彩館に公文書が残されていない。戦前の行幸の公文書は「永年保存」であり、廃棄されることはありえなかった。一方、戦後の天皇行幸の公文書で、歴彩館に所蔵されている文書は非常に少ない。

 公文書を残すか否かは、主に公務員の価値判断に委ねられている。天皇の地位が絶対的な権力者から、象徴へと変化したことで、関連する公文書の扱い方も変化したのである。

 歴史的な文書の残り方には、管理をしている人たちの価値意識が反映される。文書の残り方そのものからも、「歴史」を読み解くことができるのだ。(龍谷大准教授)