仏涅槃図の裏に記された寄進銘。戦国武将明智光秀の妻熙子の戒名「福月真祐大姉」が書かれている(大津市御陵町・市歴史博物館)

仏涅槃図の裏に記された寄進銘。戦国武将明智光秀の妻熙子の戒名「福月真祐大姉」が書かれている(大津市御陵町・市歴史博物館)

 大津市比叡辻2丁目にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)が所蔵する「仏涅槃(ねはん)図」の裏に描かれた寄進銘に、滋賀ゆかりの戦国武将明智光秀の妻煕子(ひろこ)の戒名が見つかったと、大津市歴史博物館が7日発表した。煕子が亡くなったのは、本能寺の変より前の1576(天正4)年とされる説と、変の直後の82(天正10)年の説があるが、仏涅槃図は81(天正9)年に寄進されたと記されており、同博物館は「天正9年以前に亡くなったことが確認され、天正4年死亡の可能性が高くなった」としている。

 煕子の戒名が見つかった仏涅槃図は、縦144センチ横135センチ。同寺が毎年3月15日に営んでいる涅槃会の際に使用している。

 墨書きの寄進銘には、天正9年8月秋分の日に同寺に寄進したことが記されており、寄進者2人のほか、関係者とみられる4人の戒名が記載されており、そのうち2番目に煕子の戒名「福月真祐大姉(ふくげつしんゆうだいし)」が書かれていた。

 煕子は、光秀と同じ美濃出身と伝わり、光秀が越前で浪人生活を送っていた頃、自身の黒髪を売って資金を工面するなど、夫に尽くしたエピソードが残る。

 没年は、煕子が埋葬されたと伝わる墓がある西教寺(同市坂本5丁目)の過去帳から天正4年に亡くなったという説と、戦国時代に日本で布教した宣教師ルイス・フロイスが信長の死について記した報告書や、江戸中期に書かれたとされる軍記物「明智軍記」から、天正10年の本能寺の変後に、明智光秀の居城だった坂本城落城と共に亡くなったという説がある。

 市歴史博物館の和田光生学芸員は「天正9年は、煕子の妹で信長とのパイプ役だった『妻木』が亡くなった年にあたり、仏涅槃図は妻木一族が寄進したのではないか。寄進銘が紙で覆われていた痕跡もあり、光秀が山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れた後、妻木ゆかりの寺と秀吉から思われないよう隠していたのかもしれない」としている。

 仏涅槃図は8日~10月4日まで、同博物館で開催中のミニ企画展「明智光秀と在地土豪」、10月10日~11月23日の秋の企画展「聖衆来迎寺と盛安寺」で展示される。有料。