あんに色を付ける大槻さん。100歳になった今も仕事場に立つ(南丹市園部町・かどや老舗)

あんに色を付ける大槻さん。100歳になった今も仕事場に立つ(南丹市園部町・かどや老舗)

中国の地図を広げ、行軍した場所を指し示す

中国の地図を広げ、行軍した場所を指し示す

 園部藩の御用菓子司を務めた京都府南丹市園部町の「かどや老舗」。400年に及ぶ歴史は、戦争によって途絶えていたかもしれない。家業を継ぐはずだった弟は沖縄で戦死し、自身は、身に着けたお札のおかげで砲弾の破片が急所を外れ、九死に一生を得た。傷跡がうずくたび、戦場の轟音(ごうおん)を思い起こす。

 「2人とも死んでいたら、店は終わっていたかもしれん」

 大槻章さん(100)は園部町で生まれた。いわゆる軍国少年ではなかった。

 「兵隊は嫌いや。軍事教練も行きたくなかった」

 役人として身を立てるつもりだった。関西大で法律を学び、大阪税関へと進んだ。輸出や為替の業務に携わった。しかし、21歳の頃に召集され、中国広東省の奥地へと向かった。敵の情報を集める斥候を務めた。

 「どこに何人がいるか。何をしているのか。小銃を抱え、12人ほどを引き連れて情報を集めた。一番危ない任務だった」

 3日間、何も口にせずに戦場を駆けた。空腹感はなかった。死と隣り合わせの緊張感がそうさせた。多くの仲間が戦地に倒れた。けがなどで歩けなくなり、死を選ばざるを得なかった者もいた。

 「頭や腹を銃で撃つ。気の毒や」

 あるとき、大砲がさく裂した。10センチほどある破片が腹の辺りを襲う。しかし、破片はお札に当たって方向を変え、右足の付け根に食い込んだ。

 「八幡さん(石清水八幡宮、八幡市)のお札を持っていた。中国に行く途中の船でシラミがわいた。(服などを)湯で消毒して干したら、お札が石みたいにかんかんになった。お札がなかったら死んでいる。神さんはありがたい。破片が当たったから、よう分かる」

 中国で4年間、戦火をくぐり抜け、終戦を迎えた。帰郷して聞いたのは、3歳違いの弟宏さんの訃報だった。京都市の老舗和菓子店で5年の修業を積み、かどやの歴史を新たに紡ぐはずだった。

 「戦争やから、しょうがない。2人とも死んでいたら、かどやは終わっていたかもしれん」

 役人の道は諦めた。消えない足のしびれをこらえながら菓子作りに打ち込み、功成り名を遂げた。全国菓子大博覧会で大臣賞に輝くなど、受賞は数えきれず、同博覧会の審査員も何度も務めた。

 今も月に5日ほど、仕事場に出る。全身を使って力強くあんをこね、はりのある声で長男光生さん(71)と菓子作りに関するやりとりをする。かどやの代名詞である焼き菓子「唐板(からいた)」も焼く。

 「疲れへん、疲れへん。ちょっとも疲れへん。楽しいよ」

 終戦から75年。時の経過とともに、平和の価値がなおざりにされつつある雰囲気も漂う。戦争中、園部町にあった和菓子屋は、配給するためのボーロやビスケット作りを余儀なくされた。自由に菓子を作り、楽しめるという一見ありふれた日常は、平和だからこそ享受できる。

 「人の殺し合いは嫌なことや。平和で良かったと思う。戦死した人はかわいそうや。みんな、忘れたように思ったはるけどな」

 昨年は参れなかった石清水八幡宮に今年は足を運びたいという。