1941年12月8日に書いた日記の一部。「既にハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース夕刊紙上を埋め●り。時局かくの重大なりと雖(いえど)も、却って久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」=●は判読不明、京都大基礎物理学研究所湯川記念館史料室所蔵

1941年12月8日に書いた日記の一部。「既にハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース夕刊紙上を埋め●り。時局かくの重大なりと雖(いえど)も、却って久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」=●は判読不明、京都大基礎物理学研究所湯川記念館史料室所蔵

湯川秀樹博士

湯川秀樹博士

 日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士(1907~81年)が太平洋戦争中につづっていた日記の一部内容が、8日までに明らかになった。日米開戦に高揚する様子や詳細が不明だった軍事研究への関与が記されている。一方、物理の基礎研究に打ち込む姿も浮かび上がり、戦後に核兵器廃絶を目指して平和運動を展開した湯川博士の歩みを考える上で貴重な史料といえそうだ。


 日記は遺族が寄贈し、京都大基礎物理学研究所の湯川記念館史料室が所蔵している。これまでに敗戦や原爆投下があった1945年などの日記が公表されている。今回は湯川博士と親交があった慶応大の小沼通二名誉教授(89)が41~45年の日記と関連資料を分析した。

 日本軍の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲して太平洋戦争が開戦した1941年12月8日の日記は、早朝の臨時ラジオニュースを聞いた場面から始まる。京都帝国大(現京都大)の教授だった湯川博士は、新聞の夕刊が日本軍の戦果を伝える「幸先よきニュース」で埋まっていると喜び、「却(かえ)って久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と記す。

 平和運動に人生をかけた戦後とは異なる印象で、小沼名誉教授は「湯川さんは当時、一般的な日本人と同じ感覚を持っていたようだ」と指摘する。

 41年末の日記では「歳末の感『真の勇者』」と題して、戦時下における自身の貢献について思案している。「『真理探究の道をどこまでも行く』というより他に、より有効に国家に報いる方法はないのである」との結論に達している。

 実際に湯川博士は「物理学入門」「宇宙線」などのテーマで雑誌に執筆することをはじめ、科学の基礎研究や教育に力を入れている。

 しかし戦時体制が強まるにつれ、心境に変化も生じたようだ。43年8月23~31日の分をまとめて書いた日記では「転進すべき時が来た」と書き残し、44年から軍事研究に携わるようになる。小沼名誉教授によると、軍事研究関連の会合や視察について、日記には44年に27回、45年に12回の記述があるという。航空機や電波兵器、噴射推進機など多岐にわたる。参加しても、ほとんどが専門外のため1回で終わっている。

 湯川博士は原爆開発の可能性を探るために海軍が京大に委託した「F研究」に戦時研究員として参加したことが知られている。軍事研究について小沼名誉教授は「湯川さんは理論物理学者として根本的なことを考え続けたタイプで、何かを実用化するという仕事は不向きだった。取り組もうとはしたが、貢献できなかった」としている。