「爆弾が落ちた黒煙を見ても、まさか学校が被害に遭ったと思わなかった」と振り返る川嶌さん(彦根市小泉町)

「爆弾が落ちた黒煙を見ても、まさか学校が被害に遭ったと思わなかった」と振り返る川嶌さん(彦根市小泉町)

B29が城南小近くに落とした爆弾の破片。学校玄関に展示している(城南小蔵)

B29が城南小近くに落とした爆弾の破片。学校玄関に展示している(城南小蔵)

 終戦間際に滋賀県彦根市西今町の城南国民学校(現・城南小)とその一帯が爆撃を受け、10人が亡くなった彦根空襲。県内で学校の校舎が大きな被害を受けた例は少なく、近くの畑で14歳の少女も犠牲になった。今も市内に住む当時の児童や遺族らを訪ね、空襲の爪痕を追った。

 彦根でも米軍の爆撃機が飛来するようになった1945(昭和20)年6月26日午前9時半ごろ、岐阜方面に向かう米軍B29爆撃機編隊が琵琶湖上空から姿を現した。

 当時、城南国民学校4年生の米谷寿一さん(84)は友人と自宅2階から窓の外を眺めていた。B29が、迎撃する日本軍機に追われているのが見えた。間もなくB29が爆弾を投下。その瞬間、「目の前が火の玉で真っ赤になった。爆風で2人とも吹き飛ばされ、尻もちをついた」。一目散に家の裏の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 学校の方向から黒煙が上がった。4年生だった川嶌順次郎さん(85)は、以前はもっと上空を飛んでいたB29を間近に感じ、ねずみ色の機体をはっきりと見た。「爆弾を回転させていたのか、シャーッという音が止まると、ドーンという爆発音が響いた。まさか校舎が被害を受けたとは思わなかった」と振り返る。

 学校の日誌は、校舎の北50メートルに爆弾十数発が投下されて北校舎が全壊し、講堂も被害を受け、使える教室はなくなったと記す。爆風で屋根瓦が吹き飛び、壁に爆弾の破片が刺さった。米谷さんは「窓ガラスや枠はばらばらになり、廊下は波のようにうねっていた」と語る。

 校内にいた全児童は、空襲警報前に校長の判断で帰宅していた。教職員は高学年児童が中庭に作った防空壕に入った。教師だった水野道子さん(93)は名古屋の軍需工場で勤労動員時に数多くの空襲を経験していたため、B29が低空飛行に切り替わった音を察知。「もう(防空壕に)入らなあかん」と同僚に促したことを覚えている。壕の中で、近づく爆音を聞いた。30分ほどして外に出た。全員無事だった。「煙の中で探しに来た児童らはみんな、私たちが死んだと思っていた」

 学校の周囲にある田畑の土がひっくり返って穴ができていた。6年生は救助に駆り出され、惨状を見て気絶する児童もいた。