龍谷大の南東角にある道路標識。陸軍とともにあったまちの歴史を伝える道も、今は自家用車や市バスが行き交う(京都市伏見区)

龍谷大の南東角にある道路標識。陸軍とともにあったまちの歴史を伝える道も、今は自家用車や市バスが行き交う(京都市伏見区)

上写真:現在は聖母女学院の本館となっている、旧陸軍第十六師団の司令部庁舎。「菊の御紋」が、正面上部に掲げられていることが分かる(聖母女学院提供) 下写真:聖母女学院本館(2018年撮影)

上写真:現在は聖母女学院の本館となっている、旧陸軍第十六師団の司令部庁舎。「菊の御紋」が、正面上部に掲げられていることが分かる(聖母女学院提供) 下写真:聖母女学院本館(2018年撮影)

 京都市伏見区の龍谷大深草キャンパスの南東角。通りの名を示す標識には「師団街道」「第一軍道」の物々しい文字が躍る。深草地域には、旧陸軍第16師団の司令部があった。伏見はかつて「軍都」と呼ばれた。

 司令部が置かれたのは日露戦争後の1908年。兵士や物資の輸送路となった南北の「師団街道」と、東西に3本の軍道が整備された。陸軍の病院や練兵場、複数の部隊もあり、南北は京阪伏見稲荷駅付近から墨染駅周辺、東西は現在のJR奈良線から竹田街道に至る広大な範囲に、多くの施設が造られた。

 「東に司令部(庁舎)の菊の御紋を望み、西には練兵場が広がっていた」。地域で生まれ育った田中貞義さん(90)は、司令部から西に延びる第二軍道から見た光景をはっきりと覚えている。子ども時代の暮らしは、陸軍とともにあった。

 司令部の前を通る時はいつもお辞儀。兵隊の列や軍馬はいつ通るか分からず「邪魔せぬようにと心がけるのが嫌だった」。戦果があると学校総出で旗を振って通りを行進した。

 そんなまちにも、日本の敗戦は迫った。日中戦争が半ばを過ぎると、陸軍病院に負傷兵を運ぶバスが目立つようになり、大戦末期にはそのバスさえ絶えた。田中さんの心には、終戦翌日の風景が目に焼き付いている。

 司令部に面する本町通で、馬に乗った将校とすれ違った。馬の右側には、軍刀がだらりと下がっていた。後になって、武装解除の意思表示だと知った。「いつも堂々としていた将校の沈んだ背中が衝撃だった」

 戦後、レンガ造りの司令部庁舎は聖母女学院の学校の建物となり、練兵場が広がっていた深草西浦町一帯には住宅が立ち並ぶ。龍谷大や京都教育大の敷地になった場所もあり、実感として、軍都としての面影は薄れつつある。

 ただ、第二軍道に架かる師団橋の橋脚に陸軍の象徴だった「五芒星(ごぼうせい)」が今も残り、聖母女学院の正門前には陸軍用地の境界を示す標柱が立つ。道の名とともに、当時をしのぶよすがになっている。

 今回、過去の絵図や写真を掘り起こし、地域史を伝えている市民団体の杉田鈴子代表=同区=が、地域を案内してくれた。杉田さんは「『師団』『軍道』といった言葉は物騒かもしれないが、名前が残っていることで、戦争のことを考えるきっかけになる」。