シベリア抑留での経験を話す平野さん。当時使った水筒や飯ごうが手元に残る(福知山市半田)

シベリア抑留での経験を話す平野さん。当時使った水筒や飯ごうが手元に残る(福知山市半田)

 戦後75年。平野力(つとむ)さん(96)=京都府福知山市半田=にシベリア抑留の体験を聞いた。

 福知山市拝師で、農家の5人きょうだいの長男として生まれた。幼少のころから軍国主義教育を受け、小学生の時に満州事変があった。兵士の姿に憧れて、軍隊に入りたい、とりわけ将校になりたいとずっと思っていた。

 太平洋戦争が始まると青森の弘前にあった師団の(武器や弾薬を運ぶ)輜重(しちょう)隊に入営した。満州では関東軍の満州陸軍獣医学校の獣医部で幹部候補生として教育を受け、弾に当たったり病気にかかったりした軍馬を治療していた。敗戦を知ったのは朝陽にいたとき。生きて捕虜になるようなことはするなと言われていたのに、敵だったソ連の指揮下に置かれて捕虜にされる。頭が真っ白になった。部隊長に自決を命じられても逃げようとは思わず、死んだら靖国神社に行くと思った。結局、少佐が「日本は負けたが関東軍は負けていない。最後の決戦をして態勢を挽回するんだ」と止めに入り、自決は回避された。

 帰国できるという話もあったが、信じることはできなかった。武装解除後、連れて行かれたのはシベリア南部のチタ。馬小屋同然の収容所には鉄柵が周囲に張り巡らされ、歩哨が自動小銃を持って監視していた。生活は自由が一切なかった。

 気温はマイナス40度。川が凍るほどだった。鼻は凍傷で落ちそうになり、体に血が通わなくなる。そんな中、製材工場などで重労働をさせられた。丸太の板運び、れんが作り。バーニャと呼ばれる蒸し風呂には年1回も入れず、シャツや体にはシラミがいっぱい付いた。今思えば、家畜のような扱いだった。
 黒パンや薄いスープの食事も、量が足りない。みんな食べることしか考えていない。当番がパンを切ったりスープを分けたりする手つきは今でも覚えている。それを見つめる人間の目の色が違った。

 大勢の人が死んでいったが、大地は鉄板のように固く凍り、死んだ仲間たちの埋葬もできない。放っておくしかなかった。仕方なかった。私も黄疸(だん)にかかって体中が真っ黄色になり、死ぬような思いがした。過酷で、人間の住むところではなかった。

 4年抑留され、帰還したのは1949年8月12日。復員船が来なくて当初の予定より1年延びた。梯団長として2千人を率いて舞鶴に引き揚げたが、実家に帰ると父が亡くなって3カ月がたっていた。生前、父は私のことをずっと待っていたようだ。帰国が延びなかったら、父に会えたのに。地元では「(帰国できて)あんたは良かったなあ」と言われるのが一番こたえた。

 92年8月、墓参団としてシベリアに行った。墓は整備されているところもあったが、誰の墓かも分からないところもあった。シベリアには約60万人が連れていかれ、6万人近くが亡くなった。収容所ではまるで奴隷のようだった。捕虜になり、ただ働きさせられるなんて国際法に違反している。それなのに十分な補償がない。おかしい。当時のことは今もよく思い出すが、孫に戦争のことを話しても「フーン」で終わり。だからこそ、話せるうちは伝えていきたい。