ホッケーで海外遠征中の脇坂貞夫(右端)=神社本庁発行「栄光を夢みた英霊の記憶」より

ホッケーで海外遠征中の脇坂貞夫(右端)=神社本庁発行「栄光を夢みた英霊の記憶」より

脇坂貞夫(神社本庁発行「栄光を夢みた英霊の記憶」より)

脇坂貞夫(神社本庁発行「栄光を夢みた英霊の記憶」より)

大江季雄(記念事業実行委員提供)

大江季雄(記念事業実行委員提供)

舞鶴市政記念館に展示されている「友情のメダル」のレプリカ(同市北吸・舞鶴赤れんがパーク2号棟)

舞鶴市政記念館に展示されている「友情のメダル」のレプリカ(同市北吸・舞鶴赤れんがパーク2号棟)

ベルリン五輪に参加し、同志社大ヨット部の創設にも関わった吉本善多(琵琶湖ヨット倶楽部90周年誌より)

ベルリン五輪に参加し、同志社大ヨット部の創設にも関わった吉本善多(琵琶湖ヨット倶楽部90周年誌より)

 終戦から75年。先の大戦は京都、滋賀ゆかりのスポーツ選手の命も奪った。日の丸を胸に五輪の舞台に立った青年、栄えあるメダリスト…。競技人生を全うすることなく、多くが20代、30代で生涯を閉じた「戦没アスリート」に思いをはせたい。

 1936年ベルリン五輪。ホッケー日本代表メンバーに、滋賀県出身の脇坂貞夫の名前がある。当時は東京商科大(現一橋大)の学生だった。ポジションは右ウイング。俊足でスティックさばきに優れ、チーム随一の技量を誇ったとされる。

 五輪ではハンガリーと米国に連勝したが、金メダルを獲得したインドに0―9で完敗し、予選リーグで敗退した。帰国後も競技一筋の学生生活を送り、卒業アルバムには「唯一の単純なることはホッケー生活六年だ。非常に単純だ。しかしこれがため激流に流されず、私は立っている」と記している。

 39年に卒業して満州中央銀行に入り、しばらくして陸軍に召集された。京都・伏見に司令部があった第16師団に配属。歩兵第9連隊の一員としてフィリピン・サマール島に向かい、45年4月に戦死した。29歳だった。一橋大の戦没学友を調査している「一橋いしぶみの会」の竹内雄介さん(69)=東京都=は「脇坂は大学3年の春に東京五輪の候補にも選ばれたが、後に五輪返上の閣議決定がなされた。戦争が泥沼化する中、五輪を目指してホッケーに集中しながらも、彼は社会の動きから目を背けていなかったと思う」としのぶ。

 脇坂のように戦前の五輪に参加し、戦争で命を落とした「戦没オリンピアン」は少なくない。元五輪陸上選手で広島市立大の曽根幹子名誉教授の調査では、戦病死や空襲での死者を含めて38人にのぼる。

 36年ベルリン五輪の陸上棒高跳びで銅メダルを獲得し、銀メダルの西田修平と銀銅のメダルを割ってつなぎ合わせた「友情のメダル」を作ったことで知られる京都府舞鶴市出身の大江季雄(すえお)は41年12月、27歳でルソン島南部ラモン湾で戦死した。同志社大ヨット部を立ち上げ、琵琶湖で腕を磨きベルリン五輪に参加した京都市左京区出身の吉本善多(ぜんた)も29歳だった44年5月、ビルマ(現ミャンマー)のサガイン川で命を絶たれた。

 28年アムステルダム五輪で陸上の100メートルなど3種目に出場した京都大出身の相沢巌夫(いわお)は、45年10月に陸軍司政官としてフィリピン・ルソン島で戦病死し、39歳で生涯を閉じた。

 曽根名誉教授は「高齢化や個人情報の壁で調査は難しくなっているが、事実は語り継がれていく。若い人の心にとどまればうれしい」と願う。