満州の地図を前に東京農業大の満州報国農場での体験を語る村尾孝さん(京都市北区)

満州の地図を前に東京農業大の満州報国農場での体験を語る村尾孝さん(京都市北区)

東京農業大農場の入植式の写真。未墾の湿原が果てしなく広がっていた(1944年ごろ)

東京農業大農場の入植式の写真。未墾の湿原が果てしなく広がっていた(1944年ごろ)

 戦前戦中に日本の農民が満州(現中国東北部)へ移住した満蒙開拓団はよく知られている。しかし政府が戦争末期、各府県から若者を派遣して食糧増産を図る「満州報国農場」を開拓団農場の近くに開設したことや、東京農業大が設置した報国農場に派遣された学生や職員計96人のうち58人が、1945年8月9日のソ連軍侵攻後に亡くなったことはほとんど知られていない。死亡した学生の大半は入学したばかりの16歳前後の少年たちだった。「報国農場」から生還した京都市北区の村尾孝さん(91)が、悲惨な逃避行や収容の記憶を語った。

 私は東京農大農場の生き残りです。16歳で立命館第一中を繰り上げ卒業して45年4月1日に東京農大に入った。すぐに実習として満州に派遣すると告げられ、同11日に京都を出発。朝鮮半島を縦断して、満州東部のソ連国境地帯にある駅に降り立ち、さらに夜道を15キロ歩いて約7千ヘクタールの農場に着きました。

 北の荒れ果てた大地を意味する「北大荒(ペイダアホアン)」と呼ばれた地で、農場とは名ばかりの未墾の湿原。朝5時に起きて開墾に従事し、冬は零下30度まで下がる酷寒の地は4月でもつるはしを入れれば凍土に当たった。3月の東京大空襲で焼け出された人を開拓団員で迎える宿舎も建設しました。

 収穫を控えた8月9日、ソ連軍が侵攻してきた。農場はウラジオストクやハバロフスクから越境してくるソ連軍の進路上にあった。開拓団員から「退避」の伝達を聞き、逃避行が始まった。先に撤退した関東軍がソ連軍の接収を防ぐため線路や駅を破壊していったので、私たちは山中をさまよいながら逃げた。ソ連機の機銃掃射や抗日ゲリラの襲撃で学友たちは倒れ、歩けなくなった人は山中に残さざるを得なかった。

 山道はソ連軍との戦闘や集団自決で亡くなった兵士や開拓団員の屍(しかばね)が連なっていた。ガスで腹が膨れあがった死体の周りでカンゾウが満開の花を咲かせていた。私たちは死体から銃や弾を抜き取り、武装してソ連軍の攻撃に備えました。

 兵の屍の熱くなりたる銃奪ふ

 ソ連軍に狙撃される覚悟で朝鮮半島へ南下しようと決めた当日、関東軍の少尉に出会って終戦の詔勅を伝えられた。今日は何日かと尋ねると9月7日だと教えられた。私たちも、共に逃避行を続けた開拓団員も、終戦を知らず、暦も分からないままひと月近く逃げ続け、その間に多くの命が奪われました。

 私たちは捕虜収容所へ入り、関東軍の物資を貨車でシベリアへ送る荷役に従事させられ、さらに撫順(ぶじゅん)の難民収容所へ移動しました。厳しい冬が多くの命を奪いました。学友を含む多くの日本人が極度の栄養失調で衰弱して亡くなった。山の中腹に掘った墓穴に亡きがらを投げ込み、死体は日に日に積み重なっていった。

 氷つく霜が死化粧友の顔

 東京農大報国農場は実習中の学生が6割も殉難するという教育史上例を見ない惨禍を生んだ。私は46年8月に何とか帰還できた。立命館大国際平和ミュージアムでガイドを務め、句集を自費出版して戦争体験を伝えてきた。いま、生還者38人のうち存命の人は数人を数えるのみ。寝たきりの人も多く、歴史を語れる者はもう2、3人しかいません。私は学友だけでなく、兄2人もガダルカナル島の戦闘と沖縄戦で失いました。生き残った私は命ある限り戦争体験を語り継ぐのが使命だと思っています。