浅井忠「中澤岩太博士像」 1903(明治36)年

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 まっすぐにこちらを見つめる瞳には、揺るぎない信念と高い志が感じられる。京都工芸繊維大(京都市左京区)の前身、京都高等工芸学校の初代校長、中澤岩太(1858~1943年)の肖像だ。

 描いたのは、中澤の求めに応じて図案科教授に就任した洋画家浅井忠(1856~1907年)。建築家の武田五一、化学者の鶴巻鶴一らも集い、1902年に同校は開校する。近代化のうねりの中、京都の産業、特に伝統工芸界を革新し、理論的に支えることを目的とした。

 同大学美術工芸資料館は、工芸学校時代から教育のために収集されてきた美術工芸品や資料を展示・研究する。「近代京都が新しいデザインをどう受け入れ、伝えようとしたかを見てほしい」と並木誠士館長は言う。同校の開校は、世界的なモダニズムの流れを作ったドイツの教育機関、バウハウスより17年も早かった。

 授業に使われた教材の一つ、アルフォンス・ミュシャの装飾資料集は、ミュシャの芸術が世界で注目され始めた頃に購入された。技術補佐員の下出茉莉さんは「これが教材として使われていたなんてぜいたくですね」と驚く来館者の声を聞いた。

能瀬丑三「Woman Garniture」 1912(大正元)年

  生徒の作品も残っている。ミュシャの装飾資料集は、機織科の生徒が同じ図案で作った織物が現存する。能瀬丑三(うしぞう)の「Woman Garniture」は女性の装飾品を並べた作品だ。配置の妙、絵柄の美しさ、華麗な文字。洗練されたデザイン教育が伝わってくる。

 展覧会のうち、半分ほどに同大学の学生が関わる。コロナ禍でいったん休館したが、開催中だった展覧会「建築家・瀧光夫の仕事」では、実在する瀧光夫設計の建物の図面を学生が読み取り、模型を制作した。

 模型には手書きの文章を添えた。実物を見学して感じた素晴らしさ。模型を作って気づいた特徴。学生の率直な感想を通じて、見る側にも瀧デザインの良さが伝わる。展覧会の広報物を学生が制作する機会もある。

 下出さんは「工繊大にこんな作品があったの?」と来館者の声をよく聞くという。デザインを学ぶ人などが遠方からも訪れるが「地元の方にももっと知っていただきたい」と期待する。

 

 京都工芸繊維大学美術工芸資料館 パリ留学中だった浅井忠は中澤岩太の依頼を受け、図案教育に必要な素材を調達し、特に当時流行していたポスターを多く集めた。これが館蔵品の核となる。鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)、都鳥英喜(ととりえいき)ら教員の作品も収蔵。浅井がデザインを手がけ、京都の工芸家が仕上げた「朝顔蒔絵(まきえ)手箱」「七福神蒔絵菓子器」など工芸の優品も多く、浅井の京都産業界への貢献を伝える。京都市左京区松ケ崎橋上町。075(724)7924。