舞鶴引揚記念館の来館者に、自身の経験も交えて引き揚げについて語り掛ける樟さん(京都府舞鶴市平)

舞鶴引揚記念館の来館者に、自身の経験も交えて引き揚げについて語り掛ける樟さん(京都府舞鶴市平)

樟さんの引き揚げ船での体験を基に、舞鶴市の画家(故人)が描いた紙芝居の一場面。毛布に包まれたまりこちゃんが海に沈められた

樟さんの引き揚げ船での体験を基に、舞鶴市の画家(故人)が描いた紙芝居の一場面。毛布に包まれたまりこちゃんが海に沈められた

 満州からの引き揚げ体験を持つ、京都府舞鶴市の樟(たぶのき)康(やす)さん(82)は、14年前から舞鶴引揚記念館で自身の経験を伝え続けている。妹のように思っていた女の子が亡くなったことなど、幼心に刻まれた悲惨な引き揚げの記憶を、記者の取材に語ってくれた。

 1946年8月、私は母と2人で引き揚げ船に乗っていました。もうすぐ日本に着く頃、容体が悪かった3歳ほどの女の子、まりこちゃんが亡くなりました。母が死に化粧に、と持っていた仏製の口紅を小さな唇に塗りました。フランス人形のようになって、海に沈むまりこちゃん。遺体と船をつなぐ縄が切られた瞬間は、今も忘れられません。

 1938年、旧満州ハルビン市で生まれ、3歳ごろから鞍山(あんざん)市で住友金属に勤める舞鶴出身の父、呉出身の母と社宅に暮らしました。45年8月9日のソ連侵攻時は小学1年。子どもが朝鮮半島北部へ集団疎開することになった頃、父に召集令状が来ました。終戦前日の14日に父は出征。疎開は、終戦でなくなりました。

 敗戦後、鞍山市に進駐してきたソ連兵が取り上げた腕時計を自慢していましたが、ほほえみ掛けてくれる女性兵に抵抗感は感じませんでした。生活を脅かしたのは国民党軍と中国共産党軍の内戦。昼夜砲声が響き、「死ぬならご臨終(病気)がいい」と母に話し、押し入れで眠ったのを覚えています。

 46年には、父の下で働いていた女性がレイプを避けるための短髪にぼろぼろの男装で、2人の子を連れて頼ってきました。私たちは母子2人だったので食いつなげましたが、近くの子だくさんの家庭は最後のぜいたくにとパイナップルの缶詰に青酸カリを入れ、一家心中しました。「明日はわが身」と親たちが話すのを聞き、死を覚悟しました。

 46年7月23日、引き揚げのため、乗り込んだ貨車では男性のいる家族は横になれても母子家庭は正座するのがやっと。「足手まとい」との言葉も浴びました。乗船まで約1週間滞在した収容所は鉄条網で囲まれ、屋根と外壁が残る廃虚のような建物でした。

 あてがわれた船底の部屋は蒸し風呂のよう。食事も大人なら一口ほどのアワご飯。3食のうち1食は黒っぽい、くさい塊のようなものが出て、のどを通らなかった。祖国が見えるとみんな喜んでいましたが、私は妹のように思っていたまりこちゃんが、もう少しで帰国できたのに亡くなったことの悲しみが強かったです。8月8日に博多港に入りました。出征後にシベリア抑留され、ソ連軍の食事係をした父は47年に舞鶴に帰還しました。