2度目の「白い大文字」を報じる1944年8月17日の京都新聞の記事。「送り火は若き力で」の見出しとともに、写真も掲載された

2度目の「白い大文字」を報じる1944年8月17日の京都新聞の記事。「送り火は若き力で」の見出しとともに、写真も掲載された

1943年に白い大文字を描いた第三錦林国民学校の6年生たち=田中道子さん提供

1943年に白い大文字を描いた第三錦林国民学校の6年生たち=田中道子さん提供

2度目の「白い大文字」を報じる1944年8月17日の京都新聞の記事。「送り火は若き力で」の見出しとともに、写真も掲載された

2度目の「白い大文字」を報じる1944年8月17日の京都新聞の記事。「送り火は若き力で」の見出しとともに、写真も掲載された

 京都の盆の伝統行事、五山の送り火は、太平洋戦争中の1943年から3年間、灯火管制や薪(まき)の不足で中止を余儀なくされた。代わって早朝の如意ケ嶽に浮かび上がったのは「白い大文字」。途絶えさせまいとする地元住民の呼び掛けで、小学生たちが人文字で描き出した。

 43年8月17日付の京都新聞には「山腹にパッと白の大文字咲いて」の見出しが躍る。当時の模様を「白シャツ姿の第三錦林国民学校の4年生以上四百と一般参加の市民たち」計800人が「エッサエッサと如意ケ嶽の朝露を踏んで登坂」したと報じている。

 当時6年生だった、田中道子さん(88)=宇治市=、足立美津子さん(88)=同=、豊田恵美子さん(89)=京都市西京区=は「先生に白い体操着を着て登りなさいと言われた」と振り返る。夏休み中の少女たちは銀閣寺近くの登山口に集合、水一つ持たずに整列して登った。

 「火床に5人ぐらいで入って、街の方に背中を向けて一斉にしゃがめと言われて」と田中さん。すでに物資不足は深刻で、足元は皆ぼろぼろの靴やわらぞうり姿。おしゃべりも許されず「登山と言っても楽しい思い出ではなかった」。子どもでも無邪気ではいられない時代だった。

 白い大文字は44年にも実施。終戦を経て、送り火は46年から再開された。少女たちは卒業後、ちりぢりになり、会うこともなく時は過ぎた。

 しかし、戦後50年を控えた94年、「白い大文字」は再び“元少女”たちをつなぐ。平安建都1200年事業の一環で、終戦直後に舞鶴湾沖で沈没した浮島丸が題材の映画製作があり、その1シーンとして、市民からエキストラを募集して当時の様子が再現されることになったのだ。

 「国民学校のみんなでまた登りたい」。田中さんは友人の松田良子さん(故人)に誘われ、同級生捜しを始めた。苦労のかいあって、撮影日の9月23日、60歳を超えた約25人が再会を果たし、山頂を目指した。「積もる話に花を咲かせて、本当に楽しかった」。半世紀を経て「白い大文字」は喜びを共有し合う場に変わった。その後、80歳まで同窓会は続いたという。

 戦後75年。皮肉にも節目の今年、新型コロナウイルスの影響で終戦以来、従来通りの点火が行われない。「送り火は平和だからこそ火がともるのだと改めて実感する。世の中が早く落ち着いてほしい」。3人は当時と重ね合わせ、言葉に力を込めた。