福井大空襲で妹を亡くした悲しみを語る佐々木さん(大津市坂本3丁目)

福井大空襲で妹を亡くした悲しみを語る佐々木さん(大津市坂本3丁目)

 終戦間近の1945年7月19日、米軍の攻撃で一夜にして1500人以上の命が奪われた福井空襲。14歳だった大津市坂本3丁目の佐々木幸子さん(89)は福井市内で戦火に追われ、妹を亡くした。悲劇を話すことはほとんどなかったが、戦後75年を迎え「戦火を経験していない方や、次の世代の方々に伝えたい」と体験を語った。

 空襲が始まったのは深夜11時半前。高等女学生だった佐々木さんは、2歳下の妹典子(つねこ)さんや県職員だった父良治さんと、大きな被害を受けた福井県庁近くの官舎で寝ていた。警戒警報を聞き、良治さんはすぐに県庁へ。空襲警報が発令された頃には、100機以上のB29爆撃機による焼夷(しょうい)弾が降ってきた。

 福井市内2万戸以上が焼失する中、自宅も延焼し、まず典子さんを逃がした。自身は消火を試みたが手に負えず、家を飛び出した。行く手は炎に遮られ、付近の防空壕(ごう)は満員で人も死んでいた。県庁がある福井城址に続く道を進み、泳げないが熱風に耐えかねて堀に入り、石垣にしがみついた。「隠れろ」。誰かの叫び声とともに、近くに浮く死体めがけて焼夷弾が落ちてきた。

 約80分の空襲を耐え、辛くも難を逃れたが、典子さんが見つからない。道は黒く焦げたり、焼けたりした死体で埋め尽くされていた。「ごめんなさい」と言いながら遺体の隙間を歩き、避難所の寺や女学校を捜し歩いた。

 父がいた県庁で、典子さんの訃報を知らされた。同じ堀の中で見つかり、傷一つない体を抱きしめると、典子さんの目から涙がこぼれた。「私だと分かってくれた」。そう思った途端、気を失った。目を覚ましたのは火葬場。傍らには、典子さんの骨が納められた白い箱が置いてあった。

 「みんなが助かったのは、典ちゃんが犠牲になったから」。佐々木さんは、空襲直後に母文子さんがつぶやいた一言を胸に刻む。「私には重い言葉。助けられなくてごめんなさいと、ずっと思ってきた」と今も苦しむ。

 夫の転勤を機に、半世紀以上湖国で暮らし、戦後75年の今夏、自身の体験を滋賀や京都の人たちに伝えたいとの思いが募った。「京滋では大きな空襲を体験した人はあまり多くない。戦火を逃れても心に傷を負い生きた人がたくさんいる。二度とこんな思いをする人が出てはいけない」と訴えかける。