満州時代の写真を手にする押谷さん。下の写真の右から母親、押谷さん、弟(大津市)

満州時代の写真を手にする押谷さん。下の写真の右から母親、押谷さん、弟(大津市)

 ソ連侵攻に、ソ連兵から母を守った体験、母が作った物を売り歩いて糊口をしのいだ極限の生活。大津市の押谷章子さん(84)の脳裏には、戦後75年が経った今も終戦前後の旧満州(現中国東北部)での混乱が鮮明によみがえる。押谷さんは京都新聞社が展開する「戦後75年 京滋の記憶」の企画に自分史を送付してくれた。「戦争はもう嫌や」。当時の記憶をたぐり、何度も記者に繰り返した。

 押谷さんは旧満州の首都・新京(現長春)に生まれた。終戦の約1週間前、近所の関東軍将校一家が慌ただしく引っ越しし、関東軍の倉庫に勤めていた人も姿を消した。ソ連侵攻後に日本の軍隊がいち早く撤退したことを後に知った。

 満州鉄道社員だった父親は新京に残り、母親と押谷さんと弟は朝鮮へ逃れて終戦に。その後再び新京へ向かった。社宅へ戻ると各地から逃れてきた日本人が何人も住んでいた。皆で部屋を分け合って暮らした。

 ソ連軍が新京入りし、母親は陵辱を免れるため丸坊主にして国民服を着た。ソ連兵が扉を破って家に侵入した時、母親は縁の下に隠れ、押谷さんと弟がその上に座布団を敷いてそこに座って母をかくまった。ソ連兵は大人の女性がいないとみると、家にある物を奪って去って行った。

 母が作った巻きずしやまんじゅうを売り歩いて糊口(ここう)をしのいだ。子どもが売る方がロシア人は買うので押谷さんが売り子に。「10歳だった私の稼ぎで一家が食べていた」と振り返る。

 国共内戦にも巻き込まれた。朝食の支度中だった家の中に流れ弾が飛んできた。柱が砕け、家じゅうに土埃が舞った。「恐怖に加え、ちょっとしかない食事が食べられなくなった悲しさで胸が一杯になった」

 昨年弟が亡くなり、満州体験を語れる家族は押谷さん一人に。押谷さんは生き延びるために自身の手でひな人形を売り払ったことを、ずっと後悔してきた。46年夏、両親の実家がある滋賀県へ帰還後も食べることで精一杯で、人形を買い戻すなどかなわぬ夢だった。自分史はこう締めくくっていた。「あの時満州で手放したひな人形が欲しくてたまりませんでした。やっと何年か前に買えるようになって自分用に買いました」