2020年のNHK大河ドラマは、明智光秀を主人公とした「麒麟(きりん)がくる」です。京都府内でも、明智光秀にゆかりのある場所では地元が盛り上がりを見せ始めています。そんな中、明智光秀の城として注目を集めているのが、今回取り上げる福知山城跡です。近年では続日本百名城にも選ばれ、多くの人々でにぎわっています。

復元された天守(府教委提供)

 お城というと、まず天守を思い浮かべる方が多いかと思います。福知山城跡の天守も夜にはライトアップされて、福知山市のシンボルに相応(ふさわ)しい姿を見せています。城の象徴である天守ですが、元々の天守は残念ながら明治初年に取り壊されてしまいました。

 現在の天守は、昭和61(1986)年に市民の募金をもとにコンクリートで復元したもので、内部は福知山市郷土資料館となっています。そのため、文化財としての価値が高いのは、築城期から残る天守台をはじめとする城跡の地面部分にあるといえます。福知山城跡のかつての構造はどのようなもので、現在も残されているのはどの部分なのでしょうか。

本丸に移築された銅門番所(府教委提供)

 福知山城は、福知山盆地に突き出た横山丘陵と呼ばれる丘陵の先端部に、明智光秀によって天正6(1578)年に築かれたとされています。丘陵上にあった主要な曲輪(くるわ)は、丘陵の先端部の天守・本丸から西に向かって二の丸、伯耆(ほうき)丸、内記(ないき)丸と続いていました。二の丸や内記丸は近代以降にほとんどが削られてしまいましたが、本丸は福知山城公園として整備され、現存する城郭建築の銅門(あかがねもん)番所が移築されています。また、伯耆丸は福知山市役所の南側に今も残されています。

 こうした福知山城の縄張りは全てが明智光秀によるものではありませんが、大規模な築城の様子が福知山音頭の中にも歌い継がれています。なお、縄張りの整備が大きく進んだのは、江戸時代初期の有馬豊氏の段階と考えられており、その後も岡部氏、松平氏、朽木氏と城主が入れ替わりながら改修が進められました。

天守復元前の城跡中心部(府埋蔵文化財調査研究センター提供)
天守台出土の墓石など(府教委提供)
天守台の転用石材(府教委提供)

 主要な曲輪群の中で、元々石垣を用いていたのは本丸と二の丸だけでした。特に、現存する天守台の石垣は転用石の多い古い段階の石垣として評価が高く、福知山市史跡に指定されています。転用石とは、墓石などを石垣に用いたもので、年号が刻まれた石材もあります。天守復元時の発掘調査では、天守台の中から309個もの転用石が見つかりました。石材の中には天正3(1575)年の年号が刻まれた墓石があり、天守台が築かれた上限年代を示しています。福知山市周辺には、明智光秀の福知山城築城に際して資材を持ち去られたとの伝承をもつ寺院が多く存在します。転用石の年代からも、この天守台を明智光秀が築いた可能性は十分にあるといえるでしょう。ただし、光秀の築いた天守の姿は分かっていません。

 城下町は主要な曲輪群の北側の平地に広がっていました。元々は由良川が流れていたところに大きな堤防を築き、川の流れを変えて城下町を建設しています。この堤防は「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれていますが、実際に明智光秀が築いたかどうかは不明です。この城下町の特徴は、町の西側に堀と土塁(どるい)を設けて城内に取り込んでいる点にあります。こうした構造を惣構(そうがまえ)と呼び、防御力のとても高いもので、城下町まで含めた全体が福知山城を構成していることを示しています。惣構の堀などは残っていませんが、城下町の街路はよく残り、江戸時代以来の雰囲気を残す町屋や寺院も多く残ります。

福知山城跡

 大河ドラマ効果もあって、福知山城跡を訪れる人の数は来年にかけてさらに多くなることでしょう。その中には復元天守に登っただけで満足してしまう人もいるのではないでしょうか。福知山城跡には、天守台の石垣や城下町など、江戸時代以来の雰囲気が残されているところも数多くあります。城下町を含めた城跡全体を散策することで、明智光秀以来の福知山の歴史をより深く知ることができるのではないでしょうか。(京都府教育委員会文化財保護課記念物担当 中居和志)