京都市上京区の千本通商店街と北野商店街が交わる千本中立売付近は、西陣の中でひときわ賑(にぎ)やかな一角です。そこから通りを西に1本、さらに南に足を進めると、辺りは一転して住宅地に変わり、静かな家並みの中に本瓦葺(ぶ)きの屋根が見えてきます。報土寺(ほうどじ)本堂です。

報土寺本堂の外観(写真はすべて京都府教委提供)
報土寺本堂の内部

 報土寺は平安時代前期の貞観元(859)年、真言宗寺院として創建されました。応仁文明の乱で類焼し衰退しましたが、永禄2(1559)年に浄土宗寺院として再興されました。戦国武将・黒田官兵衛(如水)の正室照福院(しょうふくいん)(俗名・御光(おてる))の肖像画や墓碑、夫妻の位牌(いはい)等があるゆかりの寺として、知る人ぞ知る寺です。白壁の土塀に囲まれた境内には、中央に本堂、南側に表門(一間薬医門)を配し、ともに国の重要文化財に指定されています。

 本堂は棟札(むなふだ)によって寛永6(1629)年に建立されたことが分かります。桁行(けたゆき)7間・梁行(はりゆき)6間、正面には向拝(こうはい)、四周に縁を設けて縁先に軒支柱を立てます。本瓦葺き、入母屋(いりもや)造の屋根は、伸びやかで軽快な印象です。内部は正面側を畳敷の外陣(げじん)とし、その奥の内陣(ないじん)は拭板敷(ぬぐいいたじき)で中央に本尊(阿弥陀如来立像 重要文化財・京都国立博物館寄託)を祀(まつ)る須弥壇(しゅみだん)を配します。内陣両脇は前後2室に仕切り、奥の間に位牌壇を設けます。このような平面構成は浄土宗寺院本堂の典型的な形式で、中でも報土寺本堂は京都市内における最古級の例として重要です。外観・内部ともに控えめで一見簡素な造りですが、江戸時代初期の寺院建築の特徴を随所に見ることができる上質な建物です。

【右】本堂棟札の表面。祈祷文と人名が記されている 【左】本堂上棟の日付が書かれた棟札裏面
報土寺地図
赤外線撮影された棟札表面の詳細(部分)。数多くの人名などが読み取れる

 報土寺は江戸時代中期、寛文3(1663)年ごろに、現在の同志社大今出川キャンパスにあたる相国寺門前から西陣の現在地に寺地を移転し、本堂と表門は旧地から移築されました。この移築と関連するのでしょうか、本堂の天井裏や床下には、別の建物の部材として使用された痕跡の残る謎めいた木材がたくさん使われています。建物各部の状況から判断すると、本堂は移築以降約360年間、屋根葺き替え等の維持修理よりも大規模な修理は行われていないようです。今後行われるであろう根本修理の時には、どのような新発見があるか、期待されています。

 さて、前述の本堂棟札は人の背丈以上(総高191・4センチ)もある立派なもので、本堂の建立年代が記された証拠品です。棟札には、上棟の日付の他に「南無阿弥陀仏」に始まる祈祷(きとう)文、住持や建立に関わった主だった僧侶、大工の名に加え、その周りを埋めるように小さな文字でびっしりと人の名が記してあります。数えてみると総勢346名(組)、たくさんの人々が信仰のもとに結縁し、この人々からの寄付によって本堂建立の費用が賄われたと推測されます。本堂建立の背景が、棟札の記述によって見えてきます。

 続いて、棟札に記された一つ一つの名前を見てみましょう。僧侶、公家・武士等の有力者と思(おぼ)しき名もありますが、「半兵衛」「四郎吉」「藤右衛門」という名から推測するに、その大多数は一般庶民に分類される人々のようです。「妙覚」「宗圓」など法名らしきものもあります。「油や」「小袖屋」など商人と思われる屋号、「与兵衛夫婦」「宗介夫婦」といった夫妻の名もありますが、「御ちよ」「婦(ふ)さ」など女性個人の名をたくさん見つけることができます。

 このように、本堂棟札にはさまざまな身分や性別の結縁者の名が、おそらく寄付の多少に関わらず、同じように並べて記されています。民衆の寺として、信者に分け隔てなく寄り添った報土寺の有り様までも、棟札から読み取ることができそうです。かつて報土寺周辺は、江戸時代に始まる花街として賑わいました。花街で働きながら病などで命を落とした女性たちの中には、身寄りがなく、亡骸(なきがら)の引き取り手のない人もいました。報土寺はそういった人々の弔いを引き受けたと伝えられています。本堂建立の昔からずっと変わらず、あらゆる人々に優しく寄り添う寺であり続けてきたのでしょう。

 西陣の知る人ぞ知る寺、報土寺。付近の散策の折には、一度訪れてみてはいかがでしょうか? なお、報土寺は通常一般公開していませんので、あらかじめ問い合わせの上、参拝されることをお薦めします。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 奈良裕美)